1月25日 | ヤマダ・マサミ ART&WORK 検:ヤマダマサミ

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主に仕事に関わる、特撮、怪獣がらみのブログです。
ときどき、猫が登場します。

1月25日
円谷英二さんの命日と言うと、80年に池袋文芸地下でやった「特撮の巨人逝きて10年 円谷英二の遺産」は好い企画でした。
ラインナップから意図的にゴジラを外しているのは前年に日劇で「ゴジラ大全集」をやったからでしょうか。
英二さんの死は当時は新聞で知りましたが、子どもなので実感がなくて、むしろその事よりすぐ「少年サンデー」で発表された追悼写真集「円谷英二」の広告へ胸をときめかせたのでした。
予約注文とはいえ、絶対に本屋に並ぶと思ってしばらく注視していても、やはり並ばず。
それから忘れてしまったわけでありませんが、注文するには小学生には高い本だった事と「仮面ライダー」や「マジンガーZ」に浮気しているうちに円谷プロ作品と縁遠くなってしまった。
その本の編集は竹内さんがやっていて、知り合ってすぐに本の話をするとリスト以外はすでに価値がないとサラッと言う。こっちは高校生だったから、桁違いにすごいなぁと思ったのですが。
竹内さんの親友の西脇さんが、ぼくのライター業の師匠である安井さんから当時、赤坂の円谷エンタープライズへ行けば社員価格で買えると誘われて行ってみると、経理をしていた子門真人さんが居て驚いたと。
その話もすごい(笑)。
本名の藤浩一さんで社員契約していた頃です。
写真集「円谷英二」は、地元の模型屋で知り合った山本さんが小学館の社員だった事で在庫を分けてもらえたのでした。日劇の頃です。
だから79年から5年間ぐらいは本当に人生が変わった時期でした。
山本さんが会社を辞めてフリーになった時に、一緒に小学館のゴジラの絵本や入門百科をやることになったのが復活「ゴジラ」の前年。
84年末に映画が公開されるとブームが引けてしまった。
たまに会うとあの時のアナログなジオラマを懐かしがります。山本さんは現在、海洋堂に居ます。
しかしあれから37年経つのに、本質がなにも変わってないですね。

文芸地下の英二さんの追悼上映を、本多監督へ話したら、いたく喜んで、文芸座には本当に感謝していると仰っていました。
その時本多さんが書いていたのが英二さんが生涯夢見てかなわなかった「日本飛行機野郎」のシナリオでした。あれ、どうなったんでしょうね。映画でやるんですか!と喜び勇んだら、シナリオはずっと書き続けている。監督とはそういうものだと仰って。
東宝へ行く事がかなったとき、真っ先にやってみたのは大プールの縁に上がってみる事でした。英二さんが立った場所。
あるとき、「連合艦隊」の撮影で主砲を撃つから観においでよと特撮美術の井上さんが言ってくれたので、同人誌に載せようとカメラを持っていくと、竹内さんが先に来ていてカメラの話になって、ふと見ると、プールに浮かんだ大和にヒキガエルが乗っかっていて、竹内さん真面目な顔であれも写真を撮らないとと言うんです。
あれはここの主で、千年蝦蟇だと言うのですが、そもそも大プールはその時築後20年ですしカエルはそんなに長生きはしない。カメは長生きなんですがね。
なんか、英二さんの事を好きでたまらない竹内さんが英二さんゆかりの蝦蟇のように感じているのが印象に残りました。
円谷英二生誕100年記念のイベントを福島でやった際、ぼくは月刊誌の取材で伺って、運営員の方と話をしていたら、こっちじゃ「つむらや」って言うんですよ、と言われる。それは戸籍上もそう読むんですか?と聞くと、方言みたいなものだと。
竹内さんに教えようと思ったまま、ついに伝えられなかった。「円谷英二」の人物像になるといつも竹内博さんが対になってしまいます。
それにつけても映画館で昭和の特撮を観る機会がなくなってしまった。