晴れ男、雨女といった存在がいる。気温でもそうした存在があるとわかったのが、今回の旅行である。例年、2月の気温はほとんどマイナスというバルト三国だが、私達の旅行中はずっと最高温度5℃ほどであった。これはツアーの中に「温室効果女性」ともいうべき人が参加していたかららしい。彼女が昨年二月にロシアを旅行したときも奇跡的な暖かさだったという。おかげで、持参したカイロもレッグウォーマーも使用しない旅となった。

 ラトビアの首都リガ観光の翌日、私たちはリトアニアに向かった。宿泊地はリガから392㎞離れたリトアニアの首都ヴィリニュスである。昼食はラトビア名物ツェベリナイであった。餅状まで練り込んだジャガイモのマッシュポテトでひき肉を包みこんで茹でてある。楕円状の形が飛行船のツッペリンに似ていることが名前の由来だという。味つけがよかったからかもしれないが美味であった。

 この日の観光はリトアニアのカナウスある杉原千畝記念館である。第二次世界大戦中、ドイツ軍の迫害を逃れて流入してきた大量のユダヤ人に対して、杉原領事代理が日本通過を可能とした査証及び渡航証明書を発給し、最終的に約6千人が救われたという。本国日本からの訓令に背き、人道的観点から査証を発給した。ついつい長いものに巻かれたくなる身からみると、より偉大さを感じるのであった。


 エストニアの面積は日本の9分の1、人口130万人、ラトビアは日本の6分の1の面積で人口202万人、リトアニアはラトビアと同じくらいの面積で人口325万人である。バルト三国とひとくくりにしまっているが、言語はエストニア語、ラトビア語、リトアニア語と異なっている。エストニア人の顔は丸っこく、リトアニアの顔は面長だという。エストニアはフィン・ウラル系、リトアニアとラトビアはインド:ヨーロッパ系といった違いがあることを知ったのは旅行したからである。


ソ連解体が起こったとき私は38歳であった。ゴルバチョフやベルリンの壁の崩壊をニュースで見たのは覚えている。しかし、独立への想いを歌で表現する「歌の祭典」を行ってきたエストニアで1988年、当時の人口の3分の1にあたる30万人以上が野外ステージの「歌の原」(野外ステージ)に集ったこと、これをきっかけに1989823日、「人間の鎖」がバルト三国三つの首都を結ぶ600㎞間で、三国の200万人が手を結び独立への意志を歌い続け、バルトの人々の独立への強い意志を全世界に示していた。結局はソ連崩壊に影響を与えたということを、情けないことに、私はまったく記憶していないのであった。


 思い起こしてみると、1980年代に流行した事象のほとんどを覚えていない。子育て、父の病、夫の両親とのつきあいで頭がいっぱいだったからだろう。この旅行をしなければバルト三国のことを知らないで終わっていた可能性が高い。またまた旅の効用を実感するのであった。(続く)