無事に帰国しました〜。そのまま今度は奈良にいます。奈良のほうが中国の山東よりも暑くてびっくりです。
さて、前回の青島編①の続きです。
青島市内の観光、教会に続いて、ドイツ総督公館趾です。ドイツは1897年に租借地としましたが、総督の住む公館は1905年から建築が始まり、1907年に完成しました。
屋根の一部分に中国式の屋根が見えますが、これは建築当時からあるもの。中国趣味を取り入れて作ったらしいですね。
このシャンデリアは鉄製で、1トン以上の重さがありますが、中の鉄骨からつながっているので、重さで切れるような心配はないそうです。
光もうまく入るように設計されています。また各階には暖炉がありますが、こうした吹き抜けの部屋に暖炉の排気口があって、暖気を無駄なく建物内で使用できるように工夫してあります。青島のある山東半島は、海から湿気が入るので、冬は寒くなるそうで、雪も降るそうです。なので、こうした寒さ対策が必要のよう。
ここは総督夫妻の寝室。ベッドの上にあるカーテンをぐるりと閉めると、ベッドのあるスペースを隠すこともでき、密室としても使えるそうです。また、この部屋だけは隣りの子供部屋やリビングからしか入れず、廊下から入ることはできません。写真左にある窓の下には空軍の基地があったそうで、いざという時にはここから脱出できるようになっていたとのこと。後に、カンボジアのシアヌーク国王が中国に逃げて来たときには、しばらくここに滞在していたそうです。
ちなみに、建築に使った材料は全てドイツから運ばせて建築したそうです。また、中には当時使っていた家具、食器やタイプライター等も展示していますが、これらも全てドイツから運ばせたものです。
中を見学すると、そこかしこに工夫をこらされ、しっかりとした建築工法が感じられ、なんだか自動車等にも通じるドイツらしさを感じます。同時に、ドイツがずっと租借地の青島にいられるように、かなりしっかりとした建物を作っていたんだろうなぁという印象も持ちます。
しかし、完成から10年もたたないうちに第一次世界大戦が起こり、1914年に日本が青島を占領して駐留すると、ここは日本軍の司令部となりました。その後、五四運動が起こり、1922年に国民党は日本から青島の権益を返還させると、今度は青島市長の公館となりますが、しばらくして迎賓館となりました。青島はその後、中華民国→日本→中華民国→中華人民共和国と変わり、1950年代からは政府要人の宿泊施設として使われましたが、1996年に重点保護施設に指定され、1999年から博物館として公開。
そして、もう一つドイツとゆかりのある場所といえば、青島ビール博物館です。
先ほどドイツは1897年に青島を租借地とした後すぐに作られたのがこのビール工場です。
ドイツにかわって、日本が青島を占領すると、青島ビールは日本の大日本ビール(だったかな?)が経営します。青島が中華民国の市となっても青島ビールは引き続き日本の企業が経営し、1945年まで続きました。
新中国成立後は国営企業となり、その後に民営化して、今日に至っています。