「怒り」それは毒
怒ってばかりいること、それは自分で毒を飲んでいるようなもの。
親や家族、上司や部下、行政や政治家・・・・・
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以前の私もすべて当てはまる。
毒をも飲んでいれば心や身体がおかしくなるはずだ。
当時を振り返ってみると怒りの根源には自分への囚われがあったように思う。
自分の思い通りにしたい
期待通りになってほしい
でも他人が自分の思い通りになるはずがない。
怒りと言う武器を使って思い通りにしようとする。
信じていたのに裏切られたと怒る。
勝手に自分が信じただけなのに相手が悪いと・・・
すべて他を拒絶している。
その原因は自分に囚われているから。
私は癌になって「自分は何も悪いことをしていないのにどうして」と怒り
思い描いた未来を奪った癌に対して怒りを覚えた
しかし15時間の手術を終え人工呼吸器に繋がれたとき自分の意思では何もできない無力な状態になったとき、私を生かせてくれたのは他人なのだと気付いた。
何も出来ずに苦しんでいる自分
そんな私に笑顔で接してくれ力つけてくれるる他人
自分への囚われが取れた瞬間だった。
このときの体験があったからこそ、今がある。
他人がいなければ、今私は生きてはいない。
そう思うと病にならなくても人は他人なしでは生きてゆけないのは当たり前のはず・・・・
でもそんなことを思ったこともなかった。
どうしてか?
すべて自分の視点からものごとを見ていたからだ。
当たり前だけど他人がいるということの根本には自分の存在がある。
自分がいなければ他人も存在しないことになる。
しかし現実は自分がいなくても他人は存在するのだ。
集中治療室のベットの上で人工呼吸器につながれている自分は何もできずただそこに存在していた無力な私。
その周りであわただしく動いている他人。
この人たちの目に私はどのように映っているのだろうか?
そのとき、なぜかもう一人の自分から全体が見えたのだ。
多くの患者さんを見ながら、仕事をしながら、私のことを見てくれていた。
それが仕事だと言えばそれまでだが、まったく無力な私には何よりも有り難かった。
以後、私は自分への囚われをなくそうとしてきたがこれは結構難しい。
そのためにト身に着けている囚われの元を少しづつ捨て、仕事も捨てた。
するとやるべきことが勝手に降りてきた。
今まで何も考えずにそれをやってきただけ。
その過程でなんども「囚われ」がよみがえってきたこともあったが、私には病院のベットでの原点があったから、捨てることができたと思う。
いまは元気ななった自分。
それは何もできなかった時にいたたくさんの人のおかげ。
そんな状況からここまで来れたのもたくさんの人のおかげ。
だから、多くの人から頂いたものや自分の体験をとおして感じたことを多くの人と分かち合うことが、元気になった自分の命の使い道だと思っている。
そう思って、この18年間、様々な活動をしてきたが、目の病もありそろそろこれから先、出来ること、出来ないことを選択していかないといけない時となってきた。
今年最後の発信となる明日、そのあたりをお知らせしようと思います。