昨年からノーマカフェでは毎月2回「田畑の子ども自然学舎」を開催し、子どもたちと自然の中で楽しんでいきますが、子どもたちと一緒にいると本当に良いエネルギーを貰えます。
たぶん邪気がないから、気持ち良いのかなぁと思います。
そして、分かち合う気持ちがあります。
もちろん子どもなので、自分のものという我もありますが、親や私たちが話すとちゃんと理解して友達と共有して、執着せずに楽しく遊び始めるんですよねぇ‼️
しかし、大人になると、、、
みんな専有し始めるんですよね~
そして「よそ者、若者、馬鹿者」などと言って、地域やとし、考え方や学歴など、、わざわざ違うものを見つけて差別したり、排除するようになります。
現在、さまざまな活動をしていますが、様々な活動をしている人たちにも、このような人はとても多いような気がします。
何を隠そう、私自身もサラリーマン時代、そして活動をするなかでも、専有意識は人より大きかったと思います。
それが強すぎてガンになったと言っても良いかも師れないほどでした。
しかし、それがないと仕事にしてもプライベートにしても、自分の存在、会社や団体の存在が証明できないような社会だから致し方ないことなのかもしれませんね。
しかし自分たちの欲で、こんなことしているのは自然界では人だけなんですよねぇ。
がん細胞は自分が生きるために、他の細胞も臓器も専有していくのは、人のそんな心が細胞に遺伝しているような気がするのは私だけでしょうか?
私は10年前に自然栽培で農業をはじめたことでそれが解り、自分の中にある専有意識や我を少なくしようとしてきました。
その結果、がん細胞は減り、様々なものと共有ができる正常細胞が増えてきたのかもしれないなぁと思います。
でもたまにそんな自分の我が出てきてしまうんですよね、習慣って怖いなぁと改めて感じます(笑)
そんなことで今日は今年一年、自分への再認識と戒めの気持ちも込めて、改めて私の思い「共有」について書こうと思います。
共有とは1つのものを複数の人が共同で所有すること。
夢や目的、情報を共有するとよく言いますが、私は共有とは持っているものを与えることで成り立つものだと考えています。
つまりギブ&テイクではなく、ギブ&ギブから始まるのです。
まずは何かを提供して、そこにまた何かを提供したいという人が集まる。
するとそこにはひとつの資源からまったく別物の新しいものが生まれます。
それなので1つのものをみんなで持ち合うのは、占有が集まっただけで共有とは言えないと思うのです。
最初は同じものを持っていたのに、この方が正しいとか、こうあるべきだとかいってバラバラになったり、派閥を作ったり・・・・
そんな状態では、誰かが1つのものを独占しようとしたり、権利を主張したりといった争いが発生します。
つまり共有が争いの発端になってしまうのです。
様々な活動をする団体で、同じ目的の人が集まって目的を共有して活動を始めるが集まった人たちが権利を主張しだして活動が滞ったり、解散したりするのは「共有」の意味を取り違えているに他なりません。
何を求めるかより、何ができるか?なのです。
そう思うと、意図や目標があるものは、共有とは言えないような気がします。
最初にあるべきものは、今そこに集まった人で何ができるか?ではないのでしょうか。
コモンズという近代以前イギリスの牧草地を管理していた制度がありますが、ここに同じ意図や目的の人が集まったらあっという間に資源は枯渇し持続できなくなってしまいます。
それは牧草地を共有しているようにみえて、占有の意識が根底にあるということ。
本来あるべく姿は、牧草地に多種多様な人があつまり、それぞれが自分のできることをすることで結果に動的平衡を保ち侍読可能になるということだと思うのです。
そしてそこに多くの人が生き、そして死に文明が発展したり変化したりしながら時代は進みます。
それが私の思う共有。
それは、仏教で言う「無常」に近いものがあるのかもしれないなぁ~ なんてふと思いました。
それが今の世の中で一番失ってしまった心ではないかなぁと思い、ノーマカフェやめぐみの会の活動では、ものやこと、そして心を共有できる世の中を目指して活動しています。