めぐみの会では様々な活動をしていますが、一番大切にしていることは出すことです。
歌や太鼓、交流会や講座もガン患者さんが何の気兼ねもなく心の内を出すことが出来る場としてやっているし、身体もまずは出さなければどんな良いものを入れたとしてもあふれ出てしまいます。
また人は排泄をしなければ生きていくことは出来ません。
つまり出すことは生きるうえで最も大切なことなのではないのでしょうか?
今日は心の排泄でもある「自分を出す」ということをテーマでブログを書こうとおもいます。
「自分を出す」
私は自分の考えや想い、そして自分自身をちゃんと出すことを心がけています。
こうやって、書いているのもその一つ
しかし、少し前までは自分を出すことはなかなかできませんでした。
こんなことを言ったり、書いたりすると人はなんて思うだろう。
ダメな奴だと非難されたり、学のなさをさらけ出したり、あんな人だと思わなかったと言われたりすることが怖かったのだ。
サラリーマンの時は特にその傾向が強かったような気がする。
自分の冠となっていた三越という看板、マネージャーという職の自分と本来の自分が比較されるのが怖かったのだ。
そしてガンになりサラリーマンを辞めたことで、このような冠がなくなり織田英嗣という一人の人になった。
その時、私はありのままの自分を曝け出そうと思ったのだった。
地位も信用もなくなったのだから、これからそれを自分の努力で作っていかなければいけない。
また以前とは違う、がんになった後の自分というものをしっかり作っていなければいけないと思った。
誰も自分のことを知らないところにいくのだから、自分の意見や考えを表に出すことが大切だと思ったのです。
人からどう思われようと「俺は、俺だ!」と。
これは結構勇気がいる事だった。
人は考えていることも、思っていることも、持っている知識も、経験も、行動パターンも皆、違う。
自分を出すという事は、人と違うという事をさらけだすこと。
しかし、やってみて人間関係がとてもよくなり、それで悩むこともほぼなくなった。
言っている事、書いていることが本音なので、誰と会ってもいつでもそのままで良いのだ。
合っているか、間違っているかなんてことを考えずに、ただ自分の思い考えていることを出すだけで良いのだからとっても楽だし、気を張る必要もない。
ただそのままの自分を出すだけ。
そう思って以前の自分を振り返ると、自分の思っていることを言わずして、人は自分のことをわかってくれない、どうしてわからないのだろう?なんてことを思っていた。
自分で曝け出していないのに、解るはずもないのに・・・
また、解ってもらう必要もないことも解った。
解る、解らないということは、私の問題ではなく相手の問題だから。
それは自分が解いた問題の答えと同じ答えを出すことを相手に求めているようなもの。
それも正解のない問題の。
そんな経緯を経て、解ってもらおうとする努力は大切ですが、解ってもらうこと事体はそんなに大切ではないと思うようになったのです。