あきらめるという言葉の語源は〝明らかに究める″から来てという話をきいたことがある。
あきらめきったところからものごとが明らかになり、それを究めきったところに真実があるというのだ。
これを聞いたとき、私は合点がいった。
13年前、癌になって大手術をする羽目になり、体も心も傷つきボロボロになったことで、それまでの生きる目標を失った。
人生をあきらめなければいけない事態に堕ちいった。
15時間の手術をして目が覚めたとき、私は人工呼吸器に繋がれ意識のあるまま2日間を過ごした。
この時の〝動けない、話せない、食べれない、息ができない、恐怖で眠れない″という状態。
それは、自分では何一つできず、ただ存在しているだけ・・・・
すべてを成り行きに委ねる、あきらめの局地だったと当時を思い返したのだ。
そのとき私が考えていたことは「どうしてこうなってしまったんだろう?」だった。
2日間その答えを探していただ、解らなかった。
当時は心当たりがなかったのだ。
その問いは、人工呼吸器が外れてからも続き、さらに5年生存率が20%前後と知ってさらに大きくなった。
そんなあるとき、以前在籍して患者会会長をしていたNPO法人 ガンの患者学研究所 川竹文夫氏の「がんを作ったのは自分の生き方」であり「生き方を変えればガンは治る」という言葉に出会った。
がんになって1年近くたっていた。
この言葉を聞いたとき、「どうしてこうなってしまったのか?」という問いの答えのきっかけを掴んだ。
それまでの〝生き方”に原因があったのでは?と。
それ以後、私は「生き方を直せばがんは治る!」という仮説を自分につくり、これを極めることで自分なりの真実をみつけようと思い行動をした。
今思い返すと、諦めたから見えてきたことだった。
「諦めなければ必ず成功する」という言葉があるし、実際私も今そう思って様々な活動をしている。
しかし、諦めなければ次のものは来ない。
今持っているものが、本当に大切なものか?
自分にとってはではなく、人のために、社会のために、未来のために、地球のために・・・・
そこを究めた結果〝あきらめる”という選択をすることが必要だと思う。
その選択が間違っていると「あきらめる」のではなく「あきらめさせられる」という現象が発生する。
最後の選択だ。
なのでガンという病には他の病気ではあまり使わない「告知する」という行為がある。
その最後通告で「諦めきれるかか否か?」
そして、その原因を明らかにして極めたところに新しい道はできるのだと思う。
小説と同じでピリオドを打つことで、新しい文脈に入ることができるのだ。
そして今私の新しいあきらめの極みは、命は有限と諦めること。
がんになってそれまでの生き方を諦めて新しい未来が開けた。
そして、その未来もいつかは必ず終わる。
ならば、生きている今から命は有限だと諦めることで、あらなる新しい未来が広がると思った。
その未来とは「私が見ることができない未来であり、存在しない未来」
そんな未来を描けるようになってからは〝さらに楽しみが増した”
だって、それはすべて想像の世界で、私の思い通りなんだから(笑)
楽しくてしょうがない。
生きる覚悟と、死ぬ覚悟を同時にしたことで見えてきたことだ。
死があるからこそ、生がある。
こんなことを言っていて、どう死ぬかはわからないが、書いちゃったんだからあんまり変な死に方はできないですね。
といより、そうならないように生きることに意味があると思う。