私はガンになる前、百貨店で20年以上、仕事として関わってきました。
そして現在はお米フエ@東郷食守族というカフエの経営をして、たまに厨房に立っていて、ガンになってからもあちこちで食に関わる活動をしてきました。
なぜ、そんなに食のことをやっているのか?
私にとって「食」は生き方を変えるきっかけになったとっても大切なことだから。
そして得たものが「何を食べるか?より、どう食べるか?」という視点が大切だといういうことなのです。
私は食道がんの手術後、約4週間口から食べ物も水も入れることができなかった。
術後、縫合不全という合併症で喉と胃をつなげたところから空気が漏れてしまったのだ。
肩から上はまるで風船のようにふくれあがり、瞼にも空気が入って目も開くことができなかった。
ちょうど術後4日経過してあすから食事ができると思った矢先の出来事だった。
この合併症のおかげで、首の切り口を再度開き、胃に管を入れられ胸腔ドレーンを再度付けられた。
食べるどころの騒ぎではない。
今までごく当たり前に口から物を入れていたが、それができなくなるなんて考えもしなかった。
もちろん栄養や水は経腸から入れているが、口から食べることができないとまったく元気が湧いてこない。
そのときの経験があったから、これまでごく当たり前に行なってきた「食べる」という行為の大切さに気づくことができた。
食べるという行為は栄養を取るためだけのものではない。
私たち人間が自らの意思で生きるという選択をするための行為なのだ。
自分で口から食べものを入れることで生きるという意思を表に出す。
そして口から物を入れることができない状態は生きているより生かされている。
赤ちゃんが最初は自分で食べることができないのは親に生かされているから。
そして自分で食べることができるようになるに従って、生きているに変わっていく。
したがって、食べるという行為は、生きるという行為の表れなのだ。
そう思って私のそれまでの食を振り返ってみると
義務的、やけ食い、暴飲暴食、そして美食
これ、すなわ義務的に、やけになって、自暴自棄に、欲にまみれて生きてきたということになる。
それから私は何を食べるかよりも、どう食べるか?を大切にするようになった。
食べることと、どう向き合うか?
それが、どう生きるかという人間の生き方と大きな関係性があると思うのだ。