私はがんは“だまし絵”のようなものだと思う。


以前、可愛いお嬢さんと醜い老婆の両方が浮かび上がってくるだまし絵を見たことがある。


不思議なことに一つの絵を見ようとすると、もう一つの絵が消え、両方を一度に見ることは出来ない。




このだまし絵を見たとき、なぜか“がん”になったときの錯覚と同じだと思ったのだ。


私たちは以前からずっとこの絵を可愛いお嬢さんだと思って見ていたが、あるとき医者にこの絵は本当は醜い老婆なんだ!と言われると、今まで自分が見ていたものが目の錯覚だと思い、醜い老婆しか見えなくなってしまうのだ。


私もがんになった当初はどう見ても以前見ていた可愛いお嬢さんは見えてこず、醜い老婆ばかりが目に飛び込んでくるようになってしまった。


その理由は、医者という専門家がこの絵は醜い老婆だと言い、他の多くの人も醜い老婆だという意見がほとんだだったからだ。


なので、以前は同じ絵で可愛いお嬢さんを見ていたはずなのに、自分の中でこれは醜い老女だったんだという意識付けをしてしまったのだ。


だまし絵とは、描かれたものが現実にそこに実在するかのような錯覚を与える絵画的表現


そう、私たちの人生そのものがだまし絵のようなもので、お嬢さんも老女もどちらも見える要素があるのだ。


しかし、目の錯覚で両方は見えないので印象に残った方が頭のなかで意識として、残像として残ってしまう。


その意識や残像を振り払うのがなかなか難しい。


私は、以前の患者会に入ったことで、この絵は両方見えると思うけど、可愛いお嬢さんと見た方が楽しいよ♪と教えて貰った。


意識して可愛いお嬢さんを見ようと心掛けると、徐々に老婆の見える回数は減っていった。 


そして今では、だまし絵を楽しめるまでになった

そんな経験を通して、私たちの人生はだまし絵そのもの。


同じ絵の中に、お嬢さんも老婆も介在するのだ。

そして時と場合によって、見えるものが変わってくる。


その時、大切なことが、何が見えるのか?の視点ではなく、何を見るのか?という視点。


悪いものを見るのではなく、良いものを見る!


悪いものを見ると、良いものは消えていき、良いものを見ると悪いものは消えて行くから。


たとえガンになったとしても、それはだまし絵でしかないのだ。


どっちを見るか?でその絵の価値も、その先の人生は大きく変わるのだから。