先日も「見えなくなっても楽しく生きる」ということを書きましたが、同じようなことを言える人はそんなに多くはないような気がする。
私が思うに「楽しい」とは、出来事や状態ではなく、捉え方の結果。
私は自分の生き方のなかで「楽しみを極めたい!」と思っている。
そして死んだら「極楽」に逝く(笑)。
では極楽に行くにはどうしたらよいのか?
良い行いをすること
徳を積むこと
南無阿弥陀仏と唱えること
など色々言われているが、私はやっぱり読んで字の如く、楽しむことを極める様な気がする。
つまり、どんなに良いことをしても、徳を積んでも、南無阿弥陀仏を唱えたとしても、楽しまなければ極楽にはいけないような気がするのだ。
だって、未来は今の積み重ねでしかないのだから。
今、楽しんでいた結果、死んでから自分の人生で楽しみを極めることが出来た!と言えること。
それが極楽往生だと思うのだ。
もちろん、良い行いをすることや徳を積むことは大切だ。
でも、何の為にそれをするのか?
私は、楽しみを増やすためだと思う。
何が良いことなのか?
私はやっぱり「楽むこと」の様な気がする。
良いことや徳を唱えて戦ったり、人を傷つけたり・・・
つまり、楽しむという目的があってこそ、良いことであり徳を積むことではないか?
そう思うと、なんだか今の時代は楽しむことを目的としていないような気がする。
良いこと、徳を積むこと、正しいことが目的となってしまっていないか?
それでは、自分という体と心に対して良いことや徳を積むことになっていない。
一番大切なことは、まずは自分自身が心から楽しいと思えるようなことをすること。
地域も、社会も、国も、世界も一人の人の集合体。
だから、まずは自分自身にとって楽しいことをする事が、結果として良いことや、徳を積むことだと思う。
そして、そんな人ばかりの世界が極楽なのだ。
だから私はまずは自分が楽しみ、そしてその楽しさを、まずは自分の周りに伝え、そして拡げていくために、何年か前からこうやって縁あるは人に発信をして、住んでいる東郷町で活動をしている。
まるで見えなくなって、行動範囲が狭くなることが分かっていたかのような展開で楽しくなる。
きっと極楽に逝くために、何かに導かれたのだろう(笑)