私は3年前のコロナ禍以来、めぐみの会でのガン患者会の活動から、地元東郷町でのノーマカフェの活動に大きく舵を切り替えてました、
私はこれまでの活動において人が幸せに生きるためには「自己肯定感」が大切だと思うようになりました。
ノーマカフェの活動に切り替えたのは、コロナ禍でガンの活動がほぼ出来なくなってしまったことをきっかけに、自分が住む東郷町を住民が良い町だと肯定できるようにしたいという想いからなのです。
今日は私がそんなことを思うようになった経緯を書いてみようと思います。
戦後の何もなかった時代から、すべての国民が豊かになろうと競った結果
強いものが弱いものを屈しさせる・・・
裕福なものが、貧しいものを侮り・・・
賢者が愚者をバカにして奢る・・・
勝ち組が負け組を蔑む・・・・
そんな時代になってしまった。
何を隠そう、私自身もそんな人たちのなかの一人だった。
しかし、18 年前にがんになったことで立場が逆転した。
切り刻まれてガタガタで弱い体
サラリーマンを辞めて無職
行動が伴わない愚か者
経済社会の中では病になり落ちこぼれた負け組・・・
そんな中で私は、今の自分を正当化するために、以前の思考や働き方、そして社会や経済まで間違っている否定した。
自分はその犠牲者
でも、今の自分の方が豊かだとアピールした。
強さ・裕福・賢者・勝ち組を否定するかのように。
でもあるとき、それも過当競争ではないか?と思った。
そのきっかけは、農薬や肥料を使わない農業を始めたことからだった。
それは自然と共生するなかで植物の生命力を高める栽培。
自然界のなかでは害虫や益虫もなくすべて生きとし生けるもの。
草も目の敵にして排除するのではなく、活かす術をみつけて土に還す。
私はこの農薬や肥料を使わない自然栽培を農業の手段としてではなく、「生き方」だと捉えた。
健やかな植物を育てる手段=健やかな人を育む手段
そこには排除も、比較も、勝ち負けもないのだ
私が思う自然栽培とは、手段ではなく植物が自らが然るべく姿をどう作っていくか?という栽培
それを人間に置き換えれば、人間が自分らしく生きるために、依存から、自立、共生へと進む自分の人生設計。
つまり、自分が自分を自然栽培で育てるという視点が大切なことだと解った。
大切なことは、社会や経済や政治家や他人が良い悪いという視点ではなく、自分が然るべく姿で生きているか?
なにかに依存するのではなく、自らが自立し他と共生していけるような生き方を自分がしていくことが大切だと解った。
そうすれば、敵をつくり排除する必要もなく、不安も、恐れや憎しみも薄れていくのではないか?
今の時代に、失われてしまったのは、相手を思いやる気持ち
それがあればこんな時代になっていない。
あれが悪い、これが悪いというのは、過当競争ではないか?
弱者と強者が、裕福なものと貧しきものが、賢者と愚者が、勝ち組と負け組が入れ替わっただけ。
敵を作るのではなく、自分の目の前を良くするのが正当競争
それが向上をもたらし、進歩を生む
今を否定する過当競争が、争いを起こし殺人までに貶めるではないか?と私は思います。
そんな経緯があって現在は自分の目の前にいる人たちがノーマル(普通)で幸せに暮らせるように東郷町においてノーマカフェの活動をしています。
これからの時代に大切なのは
思いやりの心と認め合う心
そして私は、これらの心を持つことで、はじめて自己肯定ができるようになるのだと思うのです。