では昨日の続き。


私が何故この映画にこだわり続けて上映会を主催したり、手伝ったりしているのか?

同じものを何回やるの?


また「降りてゆく生き方」をやるの?


よく言われる言葉です。


私がこの映画にこだわる理由は2つあります。


第一には、この映画は私にとっては「仲間つくり」だからです。


上に向かって登っていく時は、自分の周りはすべて敵です。


どうやって蹴落とすか、抜きん出るか、上に登れば登るほど孤独になります。


家族からも心は離れ、更に孤独になりました。


私はそんな生き方をしてきて、「がん」になり病院にはいり、そこでもまた孤独


特に15時間の手術をして人工呼吸器に繋がれてから集中治療室いた約10日間は究極の孤独です。


ただただ真っ白な病室の天井を見つめ、会える人はナースコールで呼んだ看護師さんと家内だけ。

子供たちのも父親のこんな姿は見せられないと、会えたのは1週間後でした。


私の第2の人生はそんな孤独から始まったのです。


そんな状態があって、今まで当たり前だった、人との関わりの大切さや有難さが解りました。


そして、わたしは「降りてゆく生き方」をはじめたのです。


そこで気づいたことは「降りてゆく生き方」をしようと思うと、多くの人の関わりが必要不可欠なのです。


さらに突き詰めていくと、そこには自然界の在り方に共通することが解りました。


そのヒントは奇跡のりんごの“木村秋則さん”の自然栽培のなかにあったのです。


自然栽培とは、

「排除しないこと」「活かしあうこと」「受け入れて委ねること」


即ち、「自らの生は、他の生によってあるということです。」


そして、私たち人間がそれをやろうとすると、「対話」が必要になります。


「対話」によって、お互いが学び合い、深め合い、高め合い、助け合うことが可能になるのです。


私にとって、そのためのきっかけであり、実践が「降りてゆく生き方」なのです。


こんな仲間つくりが出来たとき、誰でもが「降りる」ことができるようになります。


「がん」になっても降りられない人が多いのなら、降りられるようにすることが必要です。


それをするために、私はこの映画に関わり続けています。


第2には、継続することの意味や大切さをきちんと理解して欲しいからです。


今、私たちの周りは使い捨ての時代です。


いいと思ったものもすぐ飽きて新しい物に目がいってしまいます。


私たちの生き方もしかり。


次から次へと何かを求め上に上に向かって進み続けています。

一昔前までは、「良いもの」は代々と使い続けられ、語り継がれてきました。


「良いもの」と作った人や関わった人のの思いがこもったものです。


そして、そこから数々の思い出や、歴史が作られていったのです。


しかし、今はどうでしょうか?


NPOや社会的な活動をしている人でも、「良いもの」を追い続けている人が多いように感じます。


あれも良い、これも良い、次から次へととっかえひっかえです。


それは、使い捨てと一緒です


その場、その時の、新しい良いものを取り上げ、その前に良いと思って物をもう用なしと捨てているのです。


本当に良いものならば、それを使い続けたり、やり続けたりすることが出来るはず、いやしなければいけないのでしょうか。


どうして、そうなるか?


何かの否定から始まっているからです。


新しいものを求めるのは否定の心のような気がします。


なぜ否定の心が出るのか?

自分への肯定の心があるからです。


つまり、正しさの証明や、自分の労力に対する見返りや達成感を求めているからです。


だから、怒りや戦いが生まれるのです。


これも、あるものを活かし、同じことを繰り返しながら成長していく、自然界がお手本なのです。
私は、この映画に関わって、製作プロデューサーの森田さんや関係者のそんな思いをたくさん聞いて、自分の生き方を少しづつ軌道修正して今があります。



そんな2つの理由で、私はこの映画にこだわり続けて上映会を開催しています。



私にとって、この映画の上映会そのものが「降りてゆく生き方」なのです。 



9月19日に開催した、「りんごの生き方」の模様です。


「りんごの生き方」ダイジェストはこちら