今日は金曜。

新しい常駐先のお仕事が始まって一週間。

だんだんペースを作っていけるとよいな。

明日は愛犬とお散歩できるかな。

 

某劇場シーン2-1曲目。

 

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Les Friction は、
ヘルムート・フォンリヒテン、ニール・フィンチ、

別名エヴァン・フランクフォート、そしてペイント

という歌手が率いる独立系音楽グループです。

ヘルムートは、2010年5月にフランツが亡くなるまで、

兄のフランツ・フォンリヒテンと映画音楽プロジェクト

「ES Posthumus」でコラボレーションしていた。

2011年11月に『Les Friction』が発表され、

翌年1月にセルフ・タイトルのデビュー・アルバムがリリースされた。
バンドのデビュー アルバム『Les Friction(レス フリクション)』は、

ヘルムート フォンリヒテンとニール フィンチ

 (別名エヴァン フランクフォート) によって作曲されました。
アルバムの最初のシングル「Torture」は2011年11月26日に

デジタルダウンロードとしてリリースされ、2番目のシングル

「Louder than Words」は2011年12月27日にリリースされ、

最後のシングル「Here Comes the Reign」は2012年1月21日に

リリースされました。

アルバムの発売日である2012年1月24日に先立って行われた 。
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「Louder than Words」は、
アルバム「Les Friction」の1曲目に収録。
「Louder than Words」の一部は、

『ハリー・ポッターと死の秘宝 - パート 2、

オズ ザ・グレート・アンド・パワフル』の予告編で使用され、 

2012 年のローズボウルでもスピーカーで演奏されました。

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"Les Friction"=(摩擦・衝突)という意味を持つ単語だが、

セルフタイトルを冠したこのアルバムには、

一つの舞台設定とともに、楽曲の世界観の主軸となる

ストーリーラインを設けている。以下に引用する。
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西暦2048年、今や人類は故郷である地球を離れ、

異次元へと旅立つことが可能であった。旅の最中、

彼らの身体は生体機能を低下させたまま地球上に遺される。
多くの人にとって、これら異次元との往来は人生の余暇を豊かにし、

刺激に駆り立てた。しかし、いつしか人は故郷において

愛した者たちを省みることを忘れ、地球上の社会は

退廃の途を辿り始めた。無政府状態に拍車がかかる頃、

トラベラー達のもとに、数百万にも及ぶS.O.S.信号が

届き出していた。それは彼らの家族たちからのものだった。
そして今、彼らは戦い、葛藤し、地球への帰路を拓こうと

していた。破滅の一途にある故郷を救うために。

ここに物語が幕を開ける…

lens, align.サイト2012/1/30記事より
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Actions speak louder than words.
行動は言葉よりも雄弁。
といった形で使われる「louder than words」

上記のデビューアルバムは、この曲から始まる。

収録された9曲でストーリーが構築されているという。

その最終曲「Come Back to Me」は、上記ブログの

オーナー氏は「慟哭を禁じえなかった」といっている。

さすがは、トレーラー・ミュージック(映画予告編音楽)

の草分け「Les Friction」。

耳にした者の心を鷲掴みにするそのダークな音楽は、

保元の乱に敗れて讃岐に流された、「崇徳院」の

物語にも重なるものがあるかもしれませんな。

天皇に即位した崇徳天皇ですが、白河院と鳥羽院の院政で、

実際は何もさせてもらえませんでした。ですので崇徳天皇は、

歌道に専念するしかなかったとか。
その上、武も文も自分より劣る弟の後白河天皇が即位したことで、

不満が募っていくばかりでした。鳥羽院の病気見舞いも拒絶され、

鳥羽院が崩御した後の初七日にもできないようなことで、

対立は一層深まっていったのです。
そしていよいよ我慢の限界に来た崇徳院は、藤原忠実と

頼長や源為義に為朝などを味方につけて保元の乱を起こします。

しかし、藤原忠通・源義朝・平清盛らが後白河法皇に加勢。

結局、崇徳院は敗れ、讃岐国に配流となったのです。

讃岐への護送は過酷を極め、ほとんど囚人同様の扱いでした。
気がつけば讃岐国に来てから早9年が経ちました。

もう京都に戻ることは無理だと悟った崇徳院は、

自らの血で書いた自筆の経を3年がかりで仕上げ、

その経を京に送ります。しかしそれも拒絶されたため、

崇徳院は怒りと恨みに覆われてしまい、ついには自分の舌先

を噛み切った血を用いて、諸々の仏に願文を書き綴ったのでした。
そしてそれ以降は、死して天下を祟り、国家を悩ましてやると

誓って、髪も爪も切らず生きながら天狗の姿となって強い恨み

を抱いたまま、 長寛2年(1164)、46歳で亡くなります。
この間の状況は諸説様々にあるのですが、信じるに足りる資料が

あまりなく、はっきりと分かっていません。ただ、数多くある

説話が広まるにつれて、怨念話も大きく膨らんでいったことでしょう。

それゆえに崇徳院の祟りや恐怖のイメージが深く信じられていったと

思われます。

戦国ヒストリーサイト2023/3/3記事より

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そんな崇徳院は和歌の名手でもありました。

「瀬を早(はや)み 岩にせかるる 滝川(たきがは)の
われても末(すゑ)に 逢はむとぞ思ふ」
【現代語訳】
川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた急流が2つに分かれる。

しかしまた1つになるように、愛しいあの人と今は分かれても、

いつかはきっと再会しようと思っている。


もちろんこの歌は恋の歌です。崇徳院の不遇な生涯と

この歌を結びつけ、強引に譲位させられた無念の想いが

込められている、と解釈する研究者もいます。

それほど激しい想いを感じさせる歌でもあります。

小倉山荘サイトより

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というわけで、日本史の授業では、天皇家の跡目争いで、

1156年に保元の乱が起き、後白河天皇に敗れた崇徳院は

讃岐に流された、としか習いませんが、長い間、

怨霊として恐れられてきたんですな。

この歌が本当に恋の歌となるように、

どうぞ穏やかにお眠りくださいませ。

 

がんばれ!オレたち!