色んな見方がありますよね。
例えばひとつのリンゴを取っても、
「甘い」と言う人もいれば「酸っぱい」と言う人もいる。
「好き」な人も、「嫌い」人も、「別に何も思わない。あれば食べる」と言う人も、
「皮をむく」「皮をむかない」「うさぎさん」「皮の向き方が気に入る」「気に入らない」
輪切りにして今日はオシャレに?ジュースにして美味しく?うさぎさん作ろうと思ったら豚さんになっちゃった???
『既にあるもの』に対してやることって、人間そんなに大きく変わるものではないですね。
戦争という『既に経過したもの』も、歴史上の事実として伝えられているものなので、いわゆる『既にあるもの』なわけです。
『既にあるもの』に対する人間の態度ってリンゴの時も戦争の時もそんなに変わらない気がします。
戦争の方が情報量が多くって、沢山の方が犠牲になっている分敏感になりやすいのは分かるのですが、
『歴史的認識』の議論構造ってリンゴは上手いの?まずいの?
食感が嫌!いやいやあの歯触りが良いんだろ?
こう輪切りにするとね♪待て!それは邪道だ!
芯は捨てる。それでは中の種たちが浮かばれない!
皮は要らない。そこが一番大事なんだ!
こういう議論と大きな違いはないと思うんです。
つまり「歴史の認識の仕方」、それは=「その人の好み」でしかないってこと。
歴史に関しての認識の仕方をいくらどっちが正しいかとやっても解決などするはずもなく、
結局相手の好みが分かっていきますよという話。
最初からけんか腰でやれば相手の嫌な部分が見えてくるわけだし、
最初からお互いを知ろうということでやれば、大事にしているものが見えてくるわけです。
「正しさ」を通すということは、「好み」を伝えるだけの事であって、
その先、関係性の発展や和平の継続、良好な国家間・個人間関係の保持など良質なビジョンには進展しにくいのではないかと危惧します。
戦う為の議論よりも、相手を知ろうとする議論(相手の考え方に対する疑問を解決していく議論)を行って和平の道を探っていくという事の方が
新しい価値を産み、新しい目標に向かって、団結してよりよい世界を作っていく事になるんじゃないのかな?と
まぁそんな私の好みの話でした(笑)

