人を信じる事は、
信じる為の過程を選択し、相手やその表現をを信じる上で必要な情報や知識の収集などの努力を要する事だと思っています。
そして最終的に、相手が何をしようとしているのかを知る所まで進んでいくことだと思っています。
若いころは信じる事は鵜呑みにすることだと思っていました。
鵜呑みにすることは信じる事に似ていて、実は自分の考え・感覚・価値を否定してしまっていたりします。否定癖かもしれません。
ちょっと疑問に思う事があっても飲みこんでしまう。それが当たり前だと思ってしまっている。
すると自分の心が潰れていても、ストレスを感じていてもこれが当たり前なんだ。これを乗り越えなきゃならないんだ。と、また人よりもストレスを抱え込む原因にもなりかねないですね。
自分を犠牲にすることが尊いと、信じる場合更にこの鵜呑みの下降の螺旋階段の歩みを進めます。
人を信じる為には、それ相応の努力労力、勉強が必要になります。
自分が知らない事は調べてみたり、疑問に思ったこと相手が思い違いしているんじゃないかと感じた所は確認をして見たり、、、
何故相手はその結論に至ったのかとか、自分の社会観に照らしてみるとこういう風に見えるんだとか、信じるという過程の中には様々な確認が必要だったりします。
お話しが好きで自然な人は自然に行っているかも知れません。
でも例えば親父と僕の関係とかw、父が仕事一筋で踏み込んだ話はそれまで無かった場合はお互いに信頼関係を構築できていなかったりします。
僕の場合、そんな感じで育ったこともあって(もちろん元の素質・選んで生まれて来たってことはありますが)、
「当然」「当たり前」と感じるコミュニケーションのレベルは低かったので、相当苦労してきました。
最近、このブログも書きすすめて、自分自身気持ちの整理が進んでいるお陰も、父側のタイミングもあって、やっとコミュニケーションの糸口が見えてきましたw
とまぁ、私事は置いておいて、、、
正直この手の文章は、この記事自体が読者の方を信じる為の努力をしていない状態でアップせざるを得ないので、勝手に信じる事について定義をさせてもらっている状態です。
大いに矛盾を抱えて出産なので、できる限り書かない様に先延ばしにしてきたのですがwその分、冷静には書いているつもりです。
ちょっと今回アップする必要性を感じたのでアップさせていただきました。
追伸:
忌柱(いみばしら)とは、以前に触りだけお伝えした心御柱(こころのみはしら)シリーズ三柱の内の一注です。
必要性が出て来たので、以前よりパワーアップしたものを掲載いたしました。