「試合、どこと?」
「え、水橋w」
「楽勝やん!」
子供たちが話しているのが聞こえた。もうずいぶん昔の話だ。
自分とこの道場が楽勝呼ばわりされてて少しムッとしたけど、
実際、先鋒の子から大将までの5人が全員、20秒以内で一本取られて戻ってくる流れの試合内容だった。
攻防がない。「はじめっ」の後、すぐ襟をつかまれて、べちっと投げられて「一本」ってなるのが5人分。
まだ我が子は団体戦に出ていないのが救いだった。
でも、何年か後には団体戦に出ていてほしいと思った。
でもでも、この流れで負けてくるうちの一人になってしまうんなら柔道をやり続けている意味がない。
私自身が体格的に恵まれてないことと、走る跳ぶ投げるのどれもが壊滅的に劣っていること、それに加えてスピード、パワー、バネのどれもが平均的に低い水準でバランスが取れているために、幼い頃、同級生に嫌な思いをさせられ続けた。
何かスポーツをやっていたわけではない。
ただの体育の授業で、ことある度に一緒のチームになりたくないとか、体育の授業に出ないでくれとか、お前のせいで負けたとか、死ねとか言われ続けたせいで、子供を産み育てることに躊躇するほど私の自己肯定感は低い。
誰かより生物的に優れているという自信が圧倒的にないのだ。
一週間に3~4回の体育の時間は小学生から高校生まで6・3・3で12年もの間、他人からも自分からも「自分はダメだ」と繰り返し繰り返し確認させられ続ける作業となってしまった。しかも、子供のうちはこのつらい確認作業をやめる自由さえない。
もし、自分が自分と同じような壊滅的に劣った平均的に低い水準の運動音痴の子供を産んでしまったら、申し開きようもないし直し方も分からないしどうしてあげたらいいか分からないから、できれば子供は欲しくないって、真剣におもっていたのだ。
いっぱい傷ついて悩んで死にたくなって、そうしてたどり着いた私なりのスポーツの意味って、「自己顕示欲を満たして自分の優位性を確認したいし、確認できる人がやればいいこと」ってことになってしまったのだ。
簡単に言ったら「マウント取りたい目立ちたがり屋の業」
自分ができないから、心の中で軽蔑交じりにそう思うことで、自分を傷つけてきたスポーツというものとの折り合いをつけていた。
ゆえに、お金を払って週に何回か練習して、そして試合に出て20秒で投げられて、自分弱いなーダメだなーいつも負けるなーってなるなら意味はないのである。さっさと他に勝てることを探したほうが良いと思う。
10回試合して、せめて4回勝ってほしい。2回か3回でもいい。
もし、1回しか勝たなくても0回でも本人が楽しいんなら構わないけど、
負けてばっかりで楽しいわけがないことは私が一番知っている。
だから、やっている以上は「勝ったり負けたりする」はOKだけど、
「いつも圧倒的に負け続ける」は意味がないになるのである。
「おれすごい」「おれは強い」って思うためにやってるはずなのだから。
そして、私はいつでも全くすごくないし、誰よりも強くないから、いつもコソコソビクビクしていた。
たぶん、推しが子でなければ小さい体を小さく丸めたまんま、
気配を消して空気のように死ぬまで生きたと思う。
頼んでもないのに生まれちゃって、死ねって言われて、死ぬわけにもいかず
迷惑してるって子供の時は思ってた。
産むってわかってる分、子供より親は有利だ。
それでも、どんな子が生まれるかは親ガチャと同じように子ガチャで。
おまけに、どんな子が生まれても親は予想外に思うもんなんだろう。
だから、もし負けっぱなしで自分と同じように困るなら、
なんとか死なない技を導きたい。
たとえ筋違いの逆恨みでも死なない技をw 私と同じように。
でも、その最後にはたいてい「この子でよかった」なんて思うのが親で。
私の旦那は「親バカじゃない親はバカ親だ!」って臆面もなくいう。
名言だと今も思っている。