まるっきりのニートの青年がいました。
仕事をせず、日がな家の中にゴロゴロしており、彼は、家族のお荷物となっていました。前向きな事は何もしない割には、自己弁明は達者で親は一層頭を悩ませていました。
親の価値観からすれば、こんなだらしない状態等とても認められるものではありません。
人は働くもの、まじめに生きるものという信念にこりかたまっているのです。
これも又、至極当然のことです。きっと息子の根性を叩き直したい衝動に駆られたことでしょう。ここまでが、生活指導的な発想、及び対応です。
しかし、何をどうしても息子は前向きな生活を拒否し続け生活は改まらなかったのです。
あなたならどうカウンセリングするでしょうか?
どういう方針、グランドデザインを描くでしょうか?
とにかく生活指導ではどうにもならないのです。
人によっては行動療法的な事を考えるでしょう。あるいは又、精神分析的手法でいくかもしれません。
でも、彼の内の奥の抑圧を意識化しても、多くの場合、結局どうにもならないのです。
私は人を理論にあてはめる不自然は嫌いですので、ひらめきに従い、快・不快の原理を応用しました。
考えてみれば、ニート的生活をエンジョイしているニートはいないのです。
自分でも仕方なくニートをしているというのが本当のところです。つまり、ニート自体、かなりの不快ということです。
私は、彼により楽に(快に)生きる事を勧めました。彼はニートより楽なものがあるの?という顔です。
朝起きるのがツライ。歯を磨くのも面倒。あらゆる前向きに不快を感じる。とにかく、この感覚がイヤ。
それが状況変更の障害であることを互いに確認しました。
なら、もしもそういう感覚が生じなければどうだろう。ニートをしている方が不快そのものではないのかという誘導結論を本人に手の内を見せながら私は提案しました。
この場合用いたのは、ごく初歩的な自律訓練法のようなものでした。彼にとってこの不快が生じないというのは実に新鮮な驚きであったようです。
固着を脱した彼は、見違えるような活動的青年として生き生きとしています。
さあ、私は一体何をしたのでしょう。興味深いことかもしれませんが、そんな事より、気づいてほしい事があります。
それは、「成せば成る。何事も成さぬは、人の成さぬなりけり」が19世紀的人間観であるということです。
私は思うのです。人は有機体的な存在に違いないのだけれども、半分は機会のような仕組みになっているのだと。この場合のニートの彼には、価値観・義務感・条件付け、といったものは通用しないのです。
我々は幸せになれるようにつくられています。それは古い人間観ではなかなか達成できるものではなく、新しい人間観が今、時代が、多くの人々が求めていることに気づきましょうということでこのお話は終わります。
~美し国ぞ大和の国は~
我那覇