がんばったりがんばらなかったりですがなにか?
ダンナである。
今日NHKの「こころの遺伝子」という番組のゲストが
鎌田實さんということでビデオに撮って観た。
鎌田さんというと、『がんばらない』という著書で有名な
地域医療のお医者さんであり、やはり番組内でも
がんについての話題が多く、タイムリーなだけに引き込まれた。
なかでも気になったのは、患者の家族の問題と、
「告知する? しない?」問題の部分で、
見れば見るほどいろんな考え方があるんだなぁと思わされる。
もちろんどれが正解という問題ではないのだけれど、
番組内で鎌田さんがとった手法が、一番いいように私には思えた。
告知は、する。
ただし、「これから一緒に、がんばっていきましょうね」という言葉を必ず添える。
今はちょっとそう思った。
告知「する派、しない派」問題というものがある一方、
がんには別の大きな問題が存在する。
それは、治療「する派、しない派」問題。
ここでいう治療とは、抗がん剤、放射線などの患部に対する
直接的治療のことを指すと思ってもらいたい。
昨日の病室で、ヨメは
「もう抗がん剤はいやだな」というようなことを言った。
ヨメは現在まで3度の化学療法(=抗がん剤治療)を行い、
3度の副作用に苦しんできた。
3度が3度とも症状は似ていて、ヨメの場合、高熱、嘔吐、
腹部の痛み……という形で表れる。
今もちょうどその副作用の真っ最中の中にいた。
ヨメは言った。
抗がん剤を止めて1ヶ月しか生きられなかったとして、
元気な身体でぺ~とその1ヶ月をすごせるのがいいか、
抗がん剤治療を続けて、1ヶ月半生きられたとしても、
こんなぼろぼろの身体でぺ~と1ヶ月半すごすのならば、
もう、止めた方がいいかなって…………
がん治療を止めるのは、恐ろしい。
なぜなら、たとえそれがすごい副作用を伴うにしても、
そこには治療という名の「希望」があるからだ。
生き続けられるかもしれない希望。
死なないですむかもしれない希望。
希望を失った人生は、リアルな余命を縮めるケースも多々発生する。
ヨメのつぶやいた言葉を聞いて、私は素直にありがとうと思った。
そして、スマンと思った。
自分の希望を自分の手で断たなければならない辛さは、
想像を絶する。
きっと私が「やめようぜ」なり「もちょっとがんばろうぜ」などと言えば、
彼女は少なくとも、選択の苦しさは感じずにすんだことだろう。
自分が責任を負わねばならぬ苦しみ。
それもひとつの優しさなのかもしれない、とも思う。
だけど、これだけは、自分で選んでもらわないとダメな気がしたのだ。
人生の大事な部分は、やっぱり他人が手を出しちゃあかんのだ。
こっちの意見は伝えるが、強制はしない。
誘導もしない。弱みにつけこんで、たたみかけたりもしない。
最後はヨメの言葉で決断が浮き出てくるのを待ちたいと思っていた。
ヨメは怖がっていた。
抗がん剤をやめると言ったときに
臆病者と言われるのが、怖かったという。
もうちょっとがんばろうよ!
ぺ~のためにも、長生きしようよ!!
きっと、そんな声が、実際なのか心の中でなのか、
その耳元では聞こえたのだろう。
別にその声だって、きっとヨメを励ましたいばかりなのに、
いつしか彼女を部屋の隅に追い詰めて、圧殺しようとしてしまう。
ダンナから見て、はっきり言っておくと、
あなたはもう十分がんばってるから、むりせんでよろしい。
がんばりたければ、がんばってみたらよろしいし、
がんばりたくなければ、がんばらなくたってぜんぜんよろしい――
と、書くと、まるで愛のない放任主義のように聞こえてしまうが、
私は人が人を束縛したり束縛されたり束縛されようとすることが大嫌いなのだ。
好きに生きるということは、簡単そうに見えて、簡単ではない。
たとえば、その人にとっての幸せが「誰かの幸せ」であった場合、なおさらだ。
さらに一番タチが悪いのが、
「相手の幸せがワタシの幸せ」タイプの人が複数人向き合ってしまった場合、
そこには合わせ鏡が出現して、
誰も望んでないことになってしまうことが多々あることが腹立たしい。
なんだか今日は、原稿がちらかるな。
苦しみの中で、ヨメがひとつの決断を下した。
それは、とても大きな決断だったと思う。
おつかれさん。
あとは、おまかせあれ。
じゃあ、その方向性で。
今日、何本か電話を入れた。
みんな、素知らぬ顔して待っていた。
心配しつつも、なにげな日常おくりながら準備はできていた。
さて、明日MTG@R病院。
もう、シンプルに、
しあわせであるためだけにがんばればいいのだよ、ヨメよ。