皆さま、こんにちは。広野光子と申します。

29年前、当時私は新聞記者でございましたけれども、健診で乳がんが見つかりました。1期Cという診断で自分では軽いと思っていました。二つ名前(がんの女性記者)で取材が上手く進む、そんなふうに思っておりました。ところがその半年後くらいから不正出血が始まりました。ちょうど51歳でしたから、女でなくなる時なんだと、自然なことと受け止めていました。ところが5ヶ所に腫瘍がある卵巣がん3期Cでした。後にですが余命半年相当の病状と知りました。

以後いろいろありまして今年83歳になります。29年生き延びておりますけれども、いずみの会さんと同じような「金つなぎの会」(広野さんが立ち上げられたがん患者会)の哲学で生かされてきたものでございます。金つなぎの会はいずみの会さんの5年後の発足ですから、妹の会にしていただけたらたいへん光栄です。

今日の資料のタイトルバックにいずみの会さんのホームページのトップ画面を拝借しました。素晴らしいホームページですね。2000年に長男から「これからはインターネットの時代だよ。患者会もホームページを作らないと」と言われました。お金もない、パソコンも扱えない私に何ができますか? とはいえ余命半年の身、お金を持って死ねない。預金通帳を一つ解約し100万円かけて作りました。いずみの会さんは理事の方が素晴らしいホームページ制作されていると先ほど伺いました。100万以上の節約ですね。(笑)

ベタなホームページでも業者に頼めば1ページ更新するのに1万円かかります。全国のがん患者会でもトップの方がお亡くなりになると宙に浮いてしまいます。そういう意味で貴重な人材をお抱えになられていて、いずみの会さんは幸せだと思います。

また余計なことを言ってしまいました。(笑)


◆長男の嫁の責務と夢だった新聞記者◆

皆さまもそうだと思いますが、がんになって私は自分を見直すことから始めました。「いったい何が悪かったの?」「どんな悪いことしたからがんになったの?」 そこでもう何ものにも縛られない、囚われない、拘らない・・・般若心経の世界観ですが、すべてのものから解き放たれ自由でありたいと思いました。なぜそう思ったのか? それは11歳年上の11人兄弟の長男に私が望んで嫁いだからです。

三重県松坂市はけっこう古い街です。長男の嫁が何で働くのか? 女のくせに新聞記者? そのような環境で私は義理の両親の介護のために大阪の産経ビルから近鉄特急で住まいの名張を通り越し松坂まで月に15日間通いました。6年続きました。その結果ががん発症です。

でも原因はそれだけではありません。専業主婦をしていた私は産経新聞の懸賞に応募したところ懸賞論文に選ばれました。サンケイリビング新聞が[素人でも構わない、学歴不問、40歳まで]の条件で新聞記者を募集しているのを友人が知らせてくれました。「あなたの居場所がここにあるよ」。応募者100人中の1人として選んでいただきました。他の応募者は一流大学出身で本も書いておられました。私は夫と子ども二人を育てる高卒の専業主婦。

実は、高校在学中の将来の第一目標は早稲田の政経を出て朝日新聞の記者になることでした。ところが高3の時に、ひとりの男性に惚れてしまいました。彼は松坂の鉄工所の跡取りでした。爽やかでかっこよかったんです。(笑) 現代詩を書いていました。朝日新聞の三重詩壇に掲載されるトップランナーでした。夫は大学で応用化学を修めたにもかかわらず田舎の鉄工所経営。詩を書くことで発散していたと思うのです。

私はなんとなく背伸びした女学生(高校)でして、同じ詩壇に投稿しておりました。もう大学に行く気にはなれませんでした。私の家族には大学を出て教師をしている者もおりましたから親は猛反対でした。「人でなし!出て行け!」と言われました。私は、あの人と一緒になれるなら出て行ってもいいと思いました。それくらいの男性でございました。結婚したらそれほどでもなかったのですけれど。(笑)

結婚して男の子二人に恵まれました。夫は順調に出世し、子ども達もスクスク成長して親の手を離れていきます。いったい私は何者かしら? 広野さんの奥さん、広野君のお母さん・・・。それだけの人生ではちょっとつまらない、という気持ちが出てきました。そんな折にサンケイリビング新聞に採用してもらったのです。

記者経験も何もない私は毎朝一番に出社し、机拭きから始めました。会社では白い目、冷たい目で見られました。いじめ、今で言うハラスメントもありました。その環境で私の望む仕事をするために「すみません、ごめんなさい」ですり抜ける術を身に付けました。そこに親の介護が加わりました。私より年上の妹さんが5人おります。全員主婦で時間がおありです。でも親の介護は長男の嫁の仕事。そういうことで私にはストレスがいっぱいかかっておりました。

それでも好きな記者を続けるため、月の半分はおにぎりとウーロン茶と竹輪を特急の中で食べ介護当番を務めました。涙壺が溢れんばかりのいろいろなことを経て今に至っております。


◆がん患者会「金つなぎの会」◆

これが私の病歴です。

 

 

 


平成4年4月、乳がん1期C。平成5年4月、卵巣がん3期、5ヶ所転移。抗がん剤治療中に糖尿病が見つかりました。血糖値が400もありました。その時は生きるか死ぬかの二択ですから、糖尿であっても、「生きるために食べる」を選択しました。糖尿の影響で翌年には狭心症と心筋症になりました。なんとか凌いでいましたが6年後に心臓カテーテル術を2回受けました。施術してくださったドクターが「余命半年で抗がん剤治療を勝ち抜いて、心臓を患って生きている。これはよい教育材料だ」と思われたようです。(ドクターや看護師さんと写っている写真を示す) その時に「何かの役に立つ、世の中の役に立つって嬉しいことだな」というのが率直な感想でした。

なぜ「金つなぎ」か? 織田有楽斎(織田信長の弟、千利休の弟子)が作った金継ぎ茶碗が美術館に収蔵されています。立派な茶碗だろうが粗末な茶碗だろうが、ひびが入ったり割れたりしたものを膠で継いで金で巻いて再生します。この金継ぎ茶碗は割れる前よりしっかりして丈夫。金で継いだ茶碗は強いことを知りました。病床の私を見舞いに来てくれた友人が「あなたはひびの入った茶碗。皆で継いで守るから心配するな」と言ってくれました。そのとき闘病記を書こうと思いました。二つのがん、壮絶な抗がん剤治療。この体験を後に続く人に残そう。「広野のような生き方をしなければがんにならないかもしれない」そんなふうに読んでもらえれば意味があるし、世の中に何か残せる。産経新聞に「金つなぎの茶碗」というコラムを連載することになりました。

そうしたら読者の方々が「私も金つなぎの茶碗です」と集まってこられ、24人で会を発足しました。そのなかのお一人がご自宅にお風呂がない。ご主人が設置したアパートのベランダの風呂釜に周囲からの目隠しをして入っている。温泉に行きたいがこの体では夢のまた夢です。その話を聞いて全員が泣きました。こんな会がほしかった。ならばマスコミの力で広く告知しよう。三重県の猪の倉温泉での設立総会には200人がバス5台で集結しました。

設立総会の温泉で9名の有志が露天風呂に入っている姿を取材に来たマスコミに披露しました。がんになっても温泉を楽しんでいる。この時の写真を見ると皆さん地味で暗い色合いの服装ばかり。もっとおしゃれしましょう。おしゃれは向上心です。(それ以来、広野さんはピンクの服を好んで着てらっしゃいます)

 

 

*広野さんが主宰される患者会「金つなぎの会」

 

 

 


◆誰かのために何かの出来る幸せ◆

私は「誰かのために何かの出来る幸せ」ということを言い続けてきました。生き延びた自分は、さて、何者であるか?この世のために何か残して死ねるのか。お金も何も持っていけないけど心の中の名誉と思い出は持って死ねます。

私の抗がん剤闘病中に夫が急死しました。食道静脈瘤破裂でした。享年64歳でした。生前、夫は私を四国八十八ヶ所巡りに連れて行くと話していました。鎮魂のために会の仲間と出かけました。がんは日常から生まれる病気なので、体と心を非日常の環境に置くことでバランスがとれると素人なりに考えました。会の仲間と新年会、観梅会、観桜会、クリスマスパーティー、国内の温泉地、海外はドイツ、アメリカ、イギリスと旅行しました。

コロナ禍でもルーティン(のイベント)を欠かさなかったのがちょっとした誇りです。zoom会議にも挑戦しました。大きめのカラオケルームを借りてやりました。こういう場に身を置くことでワクワク、ドキドキ、ハラハラが身体を活性化して自然治癒力や自己免疫力によい影響を及ぼすと思います。

「誰かのために何かの出来る幸せ-①」
これは今年の5月、14年続いています「名張で学ぶがん医療」150名の参加。京都大学の先生に来ていただきました。とにかく高齢者は歩くこと。素晴らしいお話に大きな反響でした。「いのち(生命)の駅伝」はずっと後援をしています。

また、大阪府や三重県の公募資金を得て、講演会や中学・高校生への「いのちの授業」をしています。「死生観」を心に刻む大切な事業として喜ばれてきました。自らの闘病結果をもとに話し合う中高生との交流は、「がんになって良かった!」と実感できる、得難い取り組みであります。

「誰かのために何かの出来る幸せ-②」
2006年5月の日経サイエンスの記事「会話する免疫細胞」。米国の免疫学者クップファー教授(国立ジューイッシュ医学研究センター)が画像で示されました。細胞同士がコミュニケーションをとって傷ついた細胞を修復する様子です。教授の情報をやっと探し出しました。米国の有名な研究機関のサイトにあった英語のプロフィールをAIに訳してもらいました。便利ですね。

それからiPS細胞を研究の山中伸弥先生をぜひ名張にお呼びしたいと計画しています。研究費支援として目標300万円集めたいと思っていますので、その時は是非いずみの会さんにもお声かけさせていただきます。(笑)

私たちは身の丈サイズの自助努力。自分たちが楽しむことをしています。

 

 

 



◆心が変われば体が変わる◆

心が変われば体が変わります。私たちは闘病に哲学を持ちました。烏合の衆の集まりにしたくない。国に要求したり、抗がん剤を早く認可しろなど言える立場なのか!? がんは自分でつくった病気です。がんは生活習慣病、老人病、ウイルスやいろんな原因はありますけども自分がつくるんです。自分がつくった病気を国やお医者に訴えるのは私の考えではありません。

そこで5つの理念を持つことにしました。

・同病相楽しむ
・がんを恐れず侮らず
・天は自ら助くる者を助く
・信ずる者は救われる
・死ぬも生きるも天命のまま

これらは闘病の中で気づきとして出てきたものです。がんは大いなる気づきの病気です。がんは生き方を迫ってくる私にとってはたいへんありがたい病気でございました。

「心を変えれば体が変わる」はいずみの会さんにも納得していただけるテーゼだと思います。闘病している最中は、主人や子どものことを考え「死にたくない。死にたくない。」という思いでいっぱいでした。子どもたちを一人前にしないと母としての務めが終わらない。「なんとしても死ねない」から「死ぬも生きるも天命のまま」に変わりました。桜の花が教えてくれます。散らなくていい時は嵐が来ても散りません。でも散る時が来れば風がなくてもハラハラと落ちていく。

がんも他の病も自分が治すのです。ドクターは治す手伝いをしてくださいます。そういうことをわかってくださるドクターを尊敬します。一方で、「もう打つ手がありません」、「先生、この治療が10人中3人に効くなら3人に入ればいいんですよね?・・・・・・いや、7人に入るかもよ」とマイナスなことを口に出すドクターもいます。そういう言葉は患者に対して言ってはいけないのです。患者はうれしい言葉を聞きたいのです。それでも心の中の不安は消えません。頭が痛かったら脳腫瘍かなぁ・・・、体が痛めば骨に転移したかなぁ・・・どんなにドクターによい話をしてもらっても、不安を拭い去ることはできません。そこに冷や水を浴びせるドクターを、私はがん専門医とは認められません。

理念の他にモットーもつくりました。

・めげない 逃げない へこたれない
・明るく 強く 前向きに 志高く 華やかに
・きっと良くなる 必ず良くなる

【参照】
エミール・クーエ(仏で活動した自己暗示法の創設者)の自己暗示法
『日々あらゆる面で私は良くなりつつあります』
(1日に数十回唱える)

言葉は言霊です。

これでお話を終わりにします。
 

 


*オンデマンド(録画配信)で全編と質疑応答もご視聴いただけます。
 質疑での広野さんのトークがまた素晴らしいです。