看護師さんとして救護施設で大車輪の働きをされていた中園さんは2つのがんを経験されました。それらは中園さんの生き様を実証するものとして必要だったのかもしれません。

 

 

 

 

 

◆子宮内膜がん◆

小澤
こんにちは。7/13(土)「とにかく元気が出る講演会 滋賀)に出演されます中園さんに重複がんの体験をお聞かせいただこうと思います。宜しくお願いします。

まずは1つめのがんの経緯を確認させてください。

中園さん
2014年(47歳)子宮内膜がん ステージ2Bと診断されました。開腹手術で子宮・卵巣・大網を切除。加えてリンパを80個郭清しました。

小澤
リンパ80個ですか!

中園さん
そうなんです。子宮の中に腫瘍が2つありました。主治医は別々のがんかもしれないと最悪を想定しながら執刀し探ってくださいました。転移リスクが高いということで傍大動脈リンパ節も切除したので、大きな傷が残りました。最終的にがんは同一のものと判断され、郭清した80個のリンパに転移は確認されずステージ2bが確定しました。

小澤
大手術でしたね。

中園さん
2年半通っていた婦人科では、がんは見過ごされていました。理由は、子宮内膜は増殖しているものの腫瘍マーカー、貧血に異常なし。ホルモンバランスの乱れと診断。幾度と受診したにもかかわらずです。ここではダメ!と見切りを付けて飛び込んだがん拠点病院で子宮内膜を採り検査をしたら直ぐにがんと判明。看護師なので、これは即座に切り取るしかないと理解しました。その流れのまま手術という段取りになりました。

小澤
術後の措置はどうでしたか?

中園さん
正式には類内膜腺癌で、腫瘍が大きく筋肉層に浸潤していたので中リスク。そのため6クールの抗がん剤治療が組まれました。術後の排液が減らず入院したまま25日経ち1回目の抗がん剤治療になりました。人生初の抗がん剤なのでこんなもんかと我慢していましたが、体のあちこち痒みと痛みが酷かったです。それを看護師に伝えるのですが、私の見た目が元気だからかあまり関心を持ってもらえませんでした。あの時、抗がん剤を経験されていたナースがいたら、違ったのかしら。(笑)

小澤
1回目から副作用がドンと出た!?

中園さん
退院して2回目の抗がん剤でアナフィラキシーショックを起こしました。それで2剤のうち1剤を別の抗がん剤に変更してもらいました。次からは入院治療となり抗がん剤治療の前夜にステロイドを投与しました。抗がん剤は量を減らしました。残り5クールは骨髄抑制のリスクを考慮して中止する選択もありましたが、毎日様子を見に来てくださる薬剤師さんと新卒の医師に励まされ、やり遂げました。

ひとりで治療に向き合うのはしんどいものです。家族や友人が毎日面会に来てくれ、働いていた施設の利用者さんが手紙やビデオレター、折り鶴を送ってくれました。「待ってるよ!」「がんばれ。僕もがんばる。」「いてくれないと寂しいよ。」 そんなメッセージが届きました。ひとりじゃない、待ってくれるひとたちがいる、頑張ろう、と生きるスイッチがはいり心強かったです。

小澤
治療はそれで終了でしたか?

中園さん
あとは経過観察だけでした。再発や転移はあまり意識せず休職期間はゆっくり身体を休めました。1年4か月後、仕事に復帰しました。

 

 

 

看護学校卒業式

 



◆医療者感覚より一人の患者として◆

小澤
看護師さんががんに罹って、どう思われましたか?

中園さん
告知から1週間後の手術までの間に病院に来るよう呼び出しがありました。「中園さんは医療者ならではのしんどいことが起きてくるからカウンセリングを受けなさい」と主治医に勧められました。医療者ならではの“葛藤”を懸念されていたようです。横に控えていたがん相談担当の看護師さんにカウンセリングルームに連れて行かれました。

小澤
医療者ならではの葛藤?

中園さん
がん患者になったことで医療を施す側と受ける側の間に生じる葛藤のことだと思います。

当時は救護施設の仕事と並行して認知症の父の介護をしていました。私はちょっと変わっているのかもしれませんが、施設の利用者さんにも家族にも同じような感覚を抱くのです。

*救護施設
生活保護法第38条第2項
「救護施設は、身体上又は精神上著しい障害があるために日常生活を営むことが困難な要保護者を入所させて、生活扶助を行うことを目的とする施設とする」

小澤
えっ!? それはどういうことですか?

中園さん
これまで幾度も遭遇しているのですが、身寄りの無い施設の利用者さんに対する医療者側のがん告知が冷たいのです。その医療者側の姿勢を見て、私は利用者や家族の代弁者になりながら、医療側に負担をかけないよう私ができることをする。その姿勢を貫いていたので自分が治療を受ける側になっても「私が私を看護すればいい」と葛藤はあまりありませんでした。キャリアのなかでは苦悩もありましたが全て私の血肉になっている。経験した全てのことが宝物だと思いました。

小澤
はは~。中園さんは看護師さんではあるけれど、医療者の立場というより当事者もしくは家族の代表という立ち位置で仕事をされていたのですね。

中園さん
そうなんです! ですから自分ががんになっても医療者感覚が少なく、精神的には一患者として前向きに生きるという希望だけでした。

それと頭の中は、仕事を休んだら皆に迷惑がかかる、いつから仕事できるだろう・・・仕事のことばかりでした。

 

 

 

病院に置かれていた体験記が力になった

 

 


◆歩くよろずサロン◆

小澤
でも、そういうメンタルで救護施設の利用者さんに寄り添うのはしんどくなる部分もあるのではないですか?

中園さん
HSP気質なのでどうも自分事になってしまうようなのです。救護施設はいろんな事情で本当に生活するのが厳しい人たちが入所してくるのですが、私にとってはまさに天職で生きがいでした。

*HSP(Highly Sensitive Person)=「非常に感受性が強く敏感な気質もった人」 先天的な気質と考えられている

小澤
通常の病院での勤務より、その分野に関心を持たれる理由は何かあったのですか?

中園さん
同じ歳の脳性小児麻痺の従兄弟がいました。お正月やお盆で祖父母宅に行くと彼もやってきてベビーラックで休んでいました。私の両親は彼をとても可愛がっていました。彼に話しかけたりマッサージしたりすると、言葉はないけれど身体で表現してくれる彼の姿がとっても不思議に思えました。彼の言葉を想像しながら、話しかけている両親の横にいるのがとても心地よかったです。

彼は9歳で亡くなりました。その時、彼のお母さん(中園さんの叔母)は4人目の出産で入院していて息子の死を知りませんでした。葬儀の後、祖父母からの依頼で私の母が叔母に息子の死を伝える役目を任され、どうしたものかと母は困惑しているようでした。生まれながら障害があったけれど彼を大切に思い寄り添ったこと、いろんなところに連れて体験させたこと、亡くなった日は祖父母が自分たちのお布団で一緒に彼と過ごしたことなどを母は私に話してくれました。きっと私に話すことで母なりに気持ちを整理していたのだと思います。

「息子が死んだときに、母(叔母)はお産」。異なる命~生と死~の同時性が私にはすごく衝撃で心に深く刻まれました。

小澤
9歳にして道筋ができていた!?

中園さん
もうひとつ看護師になろうと思った出来事があります。中学3年のときに滋賀県で全国身体障害者スポーツ大会が催され、私の通う中学校が盲人野球の試合会場になりました。教室から試合を観戦して震えが止まりませんでした。目が見えないのに投げて、打って、走る。スゴイ!スゴイ! ここにくるまでにどんな苦悩や努力があったのだろうか。それを想像すると稲妻が走ったようになり、その過程に携わりたいという気持ちが湧きました。その思いで衛生看護科のある学校に進学しました。

小澤
一般的な白衣の天使ではなく、障害のある方に寄り添いたいが元からの動機だったのですね。それにしても厳しい環境を選ばれ、しかもケアというより同化するような寄り添い方ですね。

中園さん
そうなんですよ。それも論理や思考や責任感で選んでいるわけではなく、なぜか厳しい世界に惹かれるのです。

小澤
そこには自分に対する不足感を埋めるような心理はないのですか?

中園さん
自分が強い承認欲求を持っているとは思わないんですよ。

救護施設の面接日、実は断りに行ったんです。でも待機していた面会室に「ねーちゃん〜ね〜ちゃん」とにこにこ顔で入ってきてしまった知的障害の男性がおられました。なんかその方が愛おしくなっちゃって、「ここなら働ける!」と思いました。実際、働くようになりその方と一緒に過ごす時間はほんとに癒されました。

孤立感や生きづらさ、困りごとを抱えて施設に来られる方がたくさんいました。猜疑や欺瞞で人と交わりたくない人たちと、天使のように自由な人たち。でもそれぞれが交じりあうことで、お互いの生命力が引き出されていく。笑って凸凹を補い響きあえる時間が私の喜びでした。共に過ごすなかで生まれる連帯感やあたたかなものが私の宝物でした。

自分になにができるのか? 毎日その繰り返し。ただ人様の困りごと解決のために矢面に立つよう祭り上げられてしまうこともしばしばありましたね(笑) やっぱりHSPですかね。

小澤
困っている人を放っておけないのでしょうね。人情話の主人公のように人肌脱がないといられない。(笑)

中園さん
厳しい状態だからこそ、その人と感情を分かち合えた瞬間が最高に嬉しいです。そんなことやっているので睡眠時間は4時間の日々でした。365日電話を受けられるよう待機もしていました。不安に対する看護ができることが一流の看護師だという信念があったので、利用者さんだけでなく職員さんの不安も取ってあげたいと思っていました。(笑)

小澤
「よろず相談引き受けます」の看板出していたのですね。(笑)

中園さん
「歩くよろずサロン」と言われたこともありました。(笑)

 

 

 

救護施設勤めを決定づけた利用者さんと

 

 


◆人を助け、人に助けられるーこの世は愛に充ちている◆

小澤
2度目となる膵臓がんは2021年でしたね? 何か気になる症状はあったのですか?

中園さん
実は子宮内膜がんを患ってから疲れると吐くようになっていました。胃の検査では異常なしですが、もしかしたらその頃からすでに膵臓に異変があったかもしれません。なので、なるべく疲れないよう仕事の仕方に気をつけました。嫌なことはしないようにして、人付き合いも無理しないようにしました。仕事場でもよく「やり過ぎ」と言われていたので、責任感のレベルも下げました。(笑)

小澤
だいぶペースダウンしたのですね。

中園さん
子宮内膜がんのフォロー検査は10年予定されていました。7年目のCT検査で去年より膵臓が少し大きくなっていました。婦人科受診後すぐに消化器に回りました。膵尾部に2cmの腫瘍が見つかりました。治療は術前2クールの抗がん剤+ロボット手術+術後経口抗がん剤9ヶ月でした。

小澤
経口抗がん剤9ヶ月は中途半端な感じですね。

中園さん
当初は6ヶ月の予定でしたが、主治医がエビデンスはないけど1年続けた方が延命できている感覚を持っていると話すので続けました。6ヶ月過ぎた頃、コロナに罹り三叉神経痛とかでしばらく体調を崩しました。抗がん剤を飲むとしんどかったので外科の主治医に相談しました。主治医は今の抗がん剤は我慢を重ねてQOL落としてまでやるものじゃないという方針で服用を中止しました。その後は追加の治療、代替療法、サプリメントなど何もしませんでした。

小澤
7年経っての2度目のしかも膵臓がん。このときの心境はどうでしたか?

中園さん
これはもうすごかったです。消化器に紹介されて膵臓の腫れが何なのか判明しなかった間がショックでした。炎症なのか?腫瘍なのか?腫瘍なら悪性か?良性か? そんなときに交通事故を起こしました。

小澤
交通事故?

中園さん
私が加害者の追突事故を起こしてしまいました。すぐに救護に向かうと子供さんが3人乗っておられました。幸い外傷はなく、搬送された病院での診断も問題なかったのですが、「子供さんに何かあったらどうしよう」「お母さんが動けなかったら育児のサービス受けてもらおう」…などが頭の中を巡っていました。
 
しばらくして相手の方と電話でお話ができました。「子供はみんな元気ですからね!心配しないでくださいね。中園さんは徳のある方ですね」と言われました。ふだんはシートベルトをしない子どもたちが、たまたま寝ていたので全員シートベルトをしていたそうです。思いもよらぬあたたかい言葉をたくさんいただきましたが、それでも自責の念は消えずショックと心配で食物が喉を通らず無為状態となり2週間ほど家から出られませんでした。

小澤
それが確定診断や治療の前だったのですね。

中園さん
警察の事情聴衆で病気のことを話すと、お巡りさんからも優しい言葉をいただきました。事故処理が終わり、相手の方にお電話したのが確定診断するために入院する日。話の流れで病気のことを打ち明けると、相手の方が泣きながら「回復を祈ってます」と言ってくださったので、私は大泣きしました。

膵臓がんの診断が確定すると、それを知って、お百度参りしてくれた仲間と家族、心を寄せてくださったかかりつけ薬局の方に運送会社のお兄さん、さらにたくさんの仲間が祈りと応援をしてくださりました。感謝と喜びでいっぱいになりました。
 
がん治療は、孤独で辛い。でも、ひとりじゃない。誰かのために生きるにスイッチをいれる。この感覚も大切だと思います。

小澤
今までたくさん人助けをしてこられた中園さん、ここにきて人から助けられるの図ですね。

中園さん
今までしてきた仕事と自分の2度のがんを通じて、つくづく思ったことがあります。障害や病気は悪いことでも哀れなことでもない。そして、[助ける側:助けられる側]、[癒す側:癒される側]という構図もない。病気があっても自分らしくしていいし、傍にいる人もしんどい時はしんどいと言っていい。お互いに受け取り合えるものを素直に受け取り合っていいのです。

生きるとは生命力を高めること
生きるとは感情を知ること
生きるとは愛を知ること
生きるとは最期は穏やかに

わたしは、最期まで生きたいと思います

小澤
中園さんは一生懸命人助けをしてきたのだけれど、それは一方向のものではなく、中園さん自身も助けられてきたということですね。

中園さん
いっぱいいただきました。人は支え、支えられる。それこそが、私の経験からお伝えしたいことです。

 

 

 

治療中はニット帽でしたが、お嬢さんの成人式だけはウィッグで




【編集長感想】

中園さんは仕事の仕方は変えたものの、がん患者さんがよく取り組まれる食事の見直し、諸々の健康法や養生法はいっさいされていません。

中園さんの場合はそこがポイントではないのでしょうね。

お話を聴いていて、厳しい状況の人たちと通じ合いたい気持ちが強いが故に、自身もそのような状況を経験したいという潜在的な思いがあったのかなと感じました。それが、がんだった。

つまり愛が溢れすぎてがんになった。それほど、中園さんは愛溢れる人なのです。
そして世の中にも愛は充ちていた。多くの人の愛によって助けられました。それは中園さんが信じる生き様そのものなのです。

中園さん、あなたはHSPではなく、HLP(Highly Loving Person)です!