櫻井英代さんの体験談です。

 

最初に取材した2017年1月の記事、そして2023年2月・5月の追加取材の記事を掲載します。

 

 

 

 

 

 

いい人の達人になろう!
2017年1月 東京赤坂ホテルニューオータニ ガーデンラウンジにて

櫻井英代さんと初めてお会いしたのは、2015年11月旭川でのセミナーでした。(野島ますみさん主催) 櫻井さんは札幌から駆け付けてくださった。その後、名古屋や東京の「がん治っちゃったよ!全員集合!」(現在は「とにかく元気が出る講演会」に名称変更して継続)に足を運んでくださいました。再会を重ねる度に、お元気になっている様子は覗えましたが、まさか車椅子生活を送るほどの状態だったとは・・・。

*このとき櫻井さんは、2017年5月21日開催「がん治っちゃったよ!全員集合!札幌」の現地リーダーとして大張りきりでした。


◆15cmの腫瘍の正体は不明◆

小澤
昨日は、お疲れ様でした!お手伝い、ありがとうございました。(櫻井さんは2017年1月29日「がん治っちゃったよ!全員集合!東京」にスタッフとして参加)

櫻井さん
いやー、大盛況で、参加者の方々のお帰りの際の笑顔を見て、ますます札幌公演をやることが楽しみになりました。北海道の人達にも、絶対にこの感動を味わってほしいです!!

小澤
そのためにも(櫻井さんは札幌公演で登壇もされます)、今日は櫻井さんのがん体験をお聞かせください。

櫻井さん
もともと、婦人科系でいろんな治療を受けていました。結婚してから長らく不妊症で、長女を授かったのは結婚後9年目。その後、重い子宮内膜症を患っていました。2011年の1月には、子宮と卵巣を全摘しました。その時の細胞検査では、がんはありませんでした。

2013年の10月、膀胱に違和感があり、泌尿器科を受診しました。CT検査をしたら、15cmの腫瘍が見つかりました。

小澤
15cm!? 大きいですね。どこにあったのですか?

櫻井さん
下腹部のあたりですが、初めに気付いたのは布団に入って仰向けになると、圧迫されて頻繁にトイレに行くようになったからです。そのせいで、眠りにもつきにくかったですね。 

小澤
臓器にあったわけではないのですね?

櫻井さん
はい。超音波検査の画像では、お腹に水風船みたいなものが写ったんです。受診した病院では特定できず、がんセンターに転院しましたが、やはりその塊が何であるか調べがつかなかった。しかし、摘出すべきとの医師の判断で、手術を受けました。

開腹してみると、腹水にがん細胞がありました。取り出した腫瘍の細胞診をすると悪性であることは判明しましたが、臓器の細胞は確認されず、原発不明ということになりました。

小澤
がんと診断されて、どんなお気持ちでした?

櫻井さん
診断が出るまでの1週間、6人部屋に入院していました。告知されてカーテンを閉め泣いている人、抗がん剤治療で嘔吐し苦しんでいる人など、そこにはテレビドラマで見るような光景がありました。でも私は、すごく楽観視していました。「悪い物さえ取っちゃえば、大丈夫だ!」

がんは死の病というイメージは持っていましたが、兄が肝臓がんサバイバーでもあったので、自分は同室の人達とは違う!と心の中で思っていました。がんだけど、私は自分を「助かる人」に分類していました。

小澤
ただ、原発が不明で腹水中にがん細胞が確認されたとなると、病院は「取って終わり」という判断はしないでしょう。

櫻井さん
もちろん医師は、全身にがんがあることを想定しました。この後、どう展開するか予断を許さない。また、卵巣がんの腫瘍マーカーが高かったこともあって、それに効く抗がん剤治療を勧められました。

小澤
そうなりますよね。

櫻井さん
でも、抗がん剤は受けませんでした。

小澤
その理由は?

櫻井さん
手術で取ったから必要ないと思ったのです。それから、提示された抗がん剤について調べたら、副作用で命を落とす人がいることがわかりました。そういう重篤な副作用があることを患者に説明してから使用するようにと、製造元のホームページにも記載されていた。にもかかわらず、医師はその副作用に言及することはなかったので不信感を持ちました。加えて、肝臓がんを克服した兄がやっていた免疫療法について医師に訊ねると、否定しなかった。(櫻井さんは、お兄さんと同じ免疫療法を手術直後より開始)

小澤
いくつかの情報を集約して検討した結果、受けないという判断をしたのですね。

櫻井さん
実は、もう一つ大きな理由がありました。

小澤
何ですか?

櫻井さん
早く仕事に復帰したかったのです。(翌2014年)1月に大きなイベントを組んでいました。ですから、年内に戻りたかった。入院も当初より遅らせました。自分が担当する講座が2つあったので、それを済ましてからにしてほしいと病院に頼み込みました。

小澤
自分の体より仕事が優先!?

櫻井さん
ところが、退院を目前に腸閉塞を起こしてしまいました。それは、早く回復しようと食べ過ぎたことが原因でした。それでも仕事に戻りたい一心で、看護師さんに腸閉塞対策を聞きだし、病院内を歩きまわりました。結局、退院は年明けになってしまいましたが。(笑)

 

 

 



◆なぜ、がんになったのか?◆

小澤
櫻井さんご自身は、どうしてがんになったとお考えですか?

櫻井さん
いちばんは、自分自身を大切にしなかったことです。

小澤
なんとなく、モーレツに働いていた櫻井さんが想像されますが。

櫻井さん
保育士をしていて、現場で子ども達のために時間や労力を惜しみなく使うのが生きがいでした。家に持ち帰って教材を作る。障害のあるお子さんの場合は、障害の程度に差があるので、一人ひとりに合わせたアイテムを作りました。うまくいった時の喜びは、それはもうひとしおでした。手間暇かけた仕事に対し、子ども達が返してくれる笑顔があったからこそ、身を粉にしてエネルギーを注ぐことができました。

ところが、職場移動で区役所勤務になったのです。

小澤
現場から離れた?

櫻井さん
子ども達と接する現場から、いわば管理職に就いたのです。親子支援を行政の立場で推進していく。加えて、職員育成という職務も担うことになりました。

小澤
櫻井さんにとっての仕事のご褒美は、お子さん達の笑顔だったのに、それが得られない環境に身を置くことになったのですね。

櫻井さん
そうなんです。たとえば、このイベントを催して、何人集客できた。アンケートの結果、何%が満足と回答した・・・それが、仕事の評価になったのです。保育園勤務では、楽しかった!面白かった!と子どもが喜んでくれる。「先生と遊んで楽しかったとうちの子がはしゃいでいました。ありがとうございました」と、親からも言ってもらえる・・・【ありがとう】の評価が消失してしまったんです。

小澤
区役所に移動になったのは、いつでしたか?

櫻井さん
2011年の4月です。3月に東日本大震災がありましたよね。当初、私は被災地に保育士として派遣される予定でした。ところが転属で行けなくなった。私に出来ることがあると思っていたので、行きたかったのですけどね。

小澤
そういう喜びを、櫻井さんが心の栄養として求める何か源泉みたいのものは、あるのでしょうか?

櫻井さん
う~ん・・・「いい人」でいることが喜びなのかもしれません。私は長女なのですが、小学1年のときに父が交通事故に遭って長らく入院していました。その間、母が切り盛りしていて、私は幼心に「弟の面倒を見なければならない」と思っていました。どうもそこで“~ねばならない思考”が強化されたみたいです。その頑張りに対し「ありがとう」が必要だった。

自分が家庭を持つようになって、娘に対して「保育士だから、○○な子育てをしなければならない」 夫に対し「共稼ぎだけれど、○○あらねばならない」 母に対しては、「籠らせてはならない」・・・「ねばならない」が自分の中に根付いたように思います。

小澤
それが昂じると、自分を労わることは後回しで、仕事や家業にのめり込む傾向があった? 現場では子ども達の喜ぶ姿で補えていたが、区役所勤務でエネルギー源を断たれてしまった?

櫻井さん
ただですね、がんになった当初は、あの時に現場復帰していれば発病しなかったかもと考えました。でも今になってみると、根っこの思考習慣が変わることはなかったでしょうから、いずれ何らかの形で体は悲鳴をあげたんじゃないかと思います。

宣告された余命を乗り越え、仕事も手放してみると、自分の生き方があまりにも自分に優しくなかった。そう思います。がんになって自分を大切にすることに気付けたから、その点はがんにありがとうという気持ちです。

小澤
ワクワクしながら仕事に取り組んでいた根底には、「もっと良い保育をしよう。もっと笑顔にしてあげよう。そのために自分はもっと頑張らねば!」という意識が強く働き、体に鞭打つことになっていったのですね。

櫻井さん
それが善い事だと信じ切っていましたからね。

 

 

保育の現場から離れて

 



◆再入院、笑いヨガ◆

小澤
話を病歴に戻しますが、初回治療の後の経過はどうだったのですか?

櫻井さん
腸閉塞が歩いても良くならなかったので、笑いヨガを始めることにしたのです。実際、笑ったら腸の動きが良くなりました。(笑)

小澤
ここで笑いヨガが登場だ!(櫻井さんは当時「笑いヨガ インストラクター」としても活動中。現在は笑いヨガティーチャー)

櫻井さん
笑いヨガは、がんになる前から知っていたのです。子育て支援の一環として、笑いヨガのイベントをやっていました。その講師が、岩見沢の松川敦子さんです。(松川さんには2013年8月にお会いし、ガンの辞典に体験談記事を掲載しています)

小澤
あっこさんですか!? そういう繋がりだったんだ!

櫻井さん
でも私、イベント運営に気を取られ、松川さんがイベントでご自身が乳がんを経験されていることをお話されたのを聞き逃していました。自分で笑いヨガをやるにあたり、松川さんのことを思い出しインターネットで調べていたら、何と「ガンの辞典」の松川さんの体験談記事がヒットした。そこで初めて、松川さんが乳がんだったと知りました。(笑)

小澤
え~!!そうだったんですか!!

櫻井さん
それで、ガンの辞典の存在も知ったのです。(笑)

小澤
早速、笑いヨガの教室に行かれたのですか?

櫻井さん
ところが、1月の教室には間に合わなかった。次は3月でしたが、年度末の仕事をするために見送ったのです。

小澤
あらまた、仕事優先!?

櫻井さん
そんなこんなで4月頃から、「おや、なんかおかしいぞ」という気がしていました。別の笑いヨガ仲間に、5月の笑いヨガリーダー養成講座受講を勧められました。その翌日が受診日で、内心は再入院を覚悟していた。それくらい、体調に異変を感じていたのです。ですから、入院を前に家の片付けなどしておこうと、当初は養成講座を断るつもりでした。ところが、もう入院するんだから受講(1泊2日)しちゃおう!と、なぜか開き直って参加して、リーダーになりました。

小澤
笑いヨガのリーダーの資格を取ることに、何かこだわりがあったのですか?

櫻井さん
資格取得というより、入院中も笑うために笑い方を学んでおこうというのが目的でした。案の定、入院、抗がん剤治療となりました。

小澤
この時は、抗がん剤治療したのですね!? まさか・・・。

櫻井さん
はい、ご明察!(笑) 早く仕事に戻るためです。10月にイベントを企画していたので、3ヶ月で帰ってきます!と職場に宣言しました。(笑) 抗がん剤が効く確率は2割でしたが、副作用に耐えながら3クール受けました。幸いにも腫瘍マーカーの値が正常範囲になったので、宣言通り9月に復帰しました。そうそう、治療中の7月に病院を抜け出して、松川さんに会いに岩見沢まで行きました。(笑)

小澤
2度目の入院、前回とは気持ちに変化がありましたか?

櫻井さん
いや、前と同じように、私は同室の他の苦しんでいる人達とはちがう。「一時的に悪くなっただけ。私は大丈夫!」と思っていました。だから、懲りずにまた仕事に打ち込んだのです。

 

 

車椅子で参加 仲間からの明るい声かけが励みになった

 

 


◆腹水・胸水、栄養障害、再々入院、余命宣告◆

櫻井さん
相変わらず体を労わることなく、仕事で走り回っていましたが。年が明けた2月頃から(2015年)、毎日夕方に発熱、倦怠感、食欲不振などの症状が出だしました。それでも、休まず仕事をしていました。

小澤
う~ん、オーバーヒートを起こしてきましたね。

櫻井さん
近所の開業医で診てもらったら、胸水がありました。また抗がん剤の副作用でつらい思いをしたくないという思いもあって、免疫療法に加え、里芋パスタ、ビワの葉など民間療法を取り入れました。それで一時、胸水は引いたのですが、3月のがんセンターの定期検診は、あまり良い所見ではありませんでした。

年度末の忙しさもあって、詳しい検査は4月に先送りしました。腫瘍マーカーは上がっていて、極度の貧血、タンパク質不足・・・即入院となり、輸血、抗生剤投与となりました。腹膜播種、腹水、胸水も確認されて、病院もお手上げ状態。緩和ケアを勧められました。

小澤
それって、栄養障害状態じゃないですか!? 体重、落ちたでしょ!?

櫻井さん
痩せました。食事も摂れなくなってきて・・・。

小澤
栄養障害から悪液質に進んでもおかしくない状況にまでなっていたのですね!? 体が発するサインは、もはや重大警報になっていた。

櫻井さん
年内もたない。早くて3ヶ月・・・ついに余命宣告されました。

小澤
仕事を優先して走り続けたら、その先に道はないという・・・。

櫻井さん
余命を聞いて、すぐさまタクシーに乗り職場に向かいました。そして、退職を申し出ました。

ただ、上司の理解でしばらくは休職して治療に専念しましたが、後に、踏ん切りをつけて退職しました。私のことですから、復帰すればまたきっと仕事にのめり込んでしまう。(笑)

小澤
しかし病院としては治療の手立てがないと、緩和ケアを勧めたのでは?

櫻井さん
その時の主治医(手術を担当した医師は転勤していた)は緩和ケアも担当していたので、この状態で抗がん剤はできない。苦しむより、残された時間を大切にして自分らしく過ごしたほうがいい、という見解でした。

小澤
その現実を突きつけられて、どんな心境になりましたか?

櫻井さん
「私は違う!」と思っていたのが、病棟で同室だった6人部屋のあの人達と同じ側になった・・・。

小澤
私は“こっち側”で、“あっち側”の人間じゃなかった。それが、あっち側に入ってしまった!?

櫻井さん
覚悟をしました。夫、娘、母の3人を残して、自分はいなくなる・・・だから、この3人が困らないように、ちゃんとして行こう。職場に報告を終え、家に戻り、夫と娘に伝えました。二人はただ黙って、私の言葉に耳を傾けてくれました。そこで私は、「抗がん剤やったらたぶん治るよ」と言いました。それは初めて受けた抗がん剤が効く確率2割だったにもかかわらず結果が良かったということもありましたが、家族に対し「諦めていないよ」という意思を伝えたかった。

小澤
医学的な見通しを否定したり、目を背けず、一旦受け入れた。一方で、家族には「治ることを諦めているわけではない」という意思を示されたのは、ご家族と自分に対する宣言ですね。

 

 

 

2017年5月 札幌でのイベントは現地リーダー

 

 


◆再び抗がん剤治療・・・受けるも止めるも自分で決断・・・V字回復!◆

櫻井さん
それで、主治医に抗がん剤治療を受けることを申し出ました。

小澤
治療することが仕事の医師が、投与を躊躇しているのにですか?

櫻井さん
その時は、がんを治すことより、毎日発熱して動けない体が、せめて動けるようになればいい。がんは治らなくていい。がんは一生あってもいい。熱が下がれば、横たわっている状態から立ち上がれて、家族の食事、娘の弁当を作れる・・・それで十分! そのために抗がん剤治療をお願いしたのです。

小澤
櫻井さんに懇願された主治医は、どうされました?

櫻井さん
そこまで望むなら、ということで通常の3倍に薄めて3週間に分けて投与する方法を提案してくれました。

小澤
低容量で治療してくれたのですね。

櫻井さん
ところが、見事にアレルギーを起こしました。その薬を選んだのは・・・もう死ぬ覚悟でしたからね・・・副作用で棺桶入る時に、ハゲてるのが嫌だったからです。その薬ならハゲない。(笑) しょうがないので、別の薬に替えるのですが、これは副作用でハゲる。娘に相談したら、「髪伸びるまで生きたらいい」と言われ、「そっか!!」とその言葉で気持ちが楽になって受けることにしました。

小澤
2つ目の抗がん剤はどうでしたか?

櫻井さん
それが3クール受けたら、腫瘍マーカー、炎症値が下がり、輸血の必要がなくなりました。状態が良くなってきたものですから、主治医がその気になってきて、「6クールやろう」と言いだしました。

小澤
この調子なら、がんを治せるんじゃないかと欲が出てきた。

櫻井さん
いえ、それでも私は治ることを着地点にしていませんでした。当初の望みどおり、熱が出なくなればそれで良かった。だから、主治医の提案は断り、抗がん剤治療は止めました。

小澤
もっとやったら、もっと良くなるとは考えなかったのですか?

櫻井さん
娘は治療を続けることに賛成でした。実際、私は2クールで止めるつもりだったのです。でも、娘に促されて、もう1クール追加したのです。

小澤
非常に厳しい状態を脱したので、もっとやろう!というケースになりがちですが。

櫻井さん
がんとは一生付き合おう、と腹を括っていたのです。だから、がんを跡形もなく殲滅しようとは思わなかった。これで十分!

小澤
それは、これまでのがんに対する解釈も変わってきていたということですか?

櫻井さん
私の場合は画像ではっきりがんの姿が見えるわけではなく、顕微鏡レベルでのあちこち散らばっている存在でしたから、どの状態が完治、寛解かわからない。だったら、一生私の体の中に同居してもいい。そう思うようになりました。

小澤
いつまでも、重箱の隅つつくような治療をしても仕方ない。その判断は、素晴らしいですね。これ、きっとその後の回復の、大きなターニングポイントですね。

櫻井さん
ガンの辞典に掲載されている体験者の記事、杉浦貴之さんの体験談が参考になったのです。【自分で決めている】 医者や家族や他の人の意見に耳を貸しても、最終的には自分で決断する。「治療を止めるのも、自分が決めていいんだ!」というのを、胸に刻みました。

「自分で決める」という意味は、今になってより腑に落ちています。私はずっと、「いい人」でいようと思ってきた。人の為に自分をなげうってきた。仕事を辞めても、根底にまだその信念を抱えているんじゃないか!? それはどうなんだろう? いい人でいる自分はダメなのか? そういう自分も手放さなくちゃいけないのか?・・・と葛藤し悶々としている頃に旭川のセミナーがあった。そこで、主催者の野島ますみさんから、「いい人の達人になったらいいじゃない!」という言葉をかけられた。

「自分で決める」にしても、決め方の基準が変わってきている。何を大切にして決めるか。それで、「はっ!」と気づきました。「いい人でいいんだ!!」 そこは変えなくていい! そう思えたのです。

小澤
いい人が、“誰の為の”いい人か?という問題もありますよね。今まで取材したなかでも、ものすごい頑張り屋さんが、頑張ることは変えずに、頑張るベクトルの向き先を変えただけで良くなった人がいます。その人の根幹を為すパーソナリティの良し悪しではなく、パーソナリティの使い方を変えると、病が、体が、人生が変わっていく。

櫻井さん
私は私を捨てずに、「いい人の在り方」を変えればいいというので、気持ちが晴れました。

小澤
その後は、標準治療は受けていないのですか?

櫻井さん
2015年の9月1日で抗がん剤治療を終了しました。後は免疫療法、お手当、笑いヨガです。だんだん食事も摂れるようになって、体重も増えてきました。

主治医からは、抗がん剤の効果は半年しかもたない。(翌2016年)2月頃には再発する、と有難くない予告をされました。でも3月の検査では、腹水はみられるものの、腫瘍マーカー、炎症値(CRP)、貧血はすべて正常範囲内。腹膜播種もCT画像で、きれいになっていました。

小澤
あれだけ仕事に情熱を注いでいた櫻井さんとしては、退職して体調が良くなると、手持無沙汰ではありませんか?

櫻井さん
ハハハ!(笑) 大丈夫です。笑いヨガがあります。

治ったときの夢をリストアップしていましが、その中の一つに、「笑いヨガクラブをつくる」があります。自分が笑いたいので、リーダーさんの補助として各施設に帯同し、笑いヨガをやっていました。すると、「手稲でクラブをつくってほしい」と声掛けられるようになりました。私はまだ再発のリスクもあるので、「いや、まだできないです」と断っていましたが、ある時仲間から、「やる!って言っちゃたらできるよ!」と促され、「やる!」って言っちゃいました。(笑)

小澤
それで、笑いヨガクラブ「笑うっていーね!」が誕生したのですね。自分の為、人様の為、これからも【いい人の達人】でいてください。今日は、ご協力ありがとうございました。

 

 

 

大盛り上がりの札幌公演

 

出演者・スタッフ

 

 


【編集長感想】(2017年取材時)

2015年11月 旭川セミナー、櫻井さんがこんな経緯をたどってきていたとは、露ほども知りませんでした。会場の中で、ひときわ笑顔で肯きながら、私の話を聴いてくださっていました。

櫻井さんの「決め方」の特徴は、すべて「~したいから」という真の意味での主体性が伴っています。○○を避けるため、ではないのです。

「いい人の達人」も、同じことです。

主治医が緩和も担当しているドクターに替わったり、低容量抗がん剤治療を提案してくれたり、笑いヨガと繋がる・・・奇跡的な幸運に思えるような出来事は、誰でも遭遇できるのです。ただし、それをキャッチできるかどうか。

真の意味で主体性があると、キャッチしやすいのだと思います。

 

 

*櫻井さんが主宰する笑いヨガのサイト「笑愛(わらいあい)」

 

 

 



【追記 2023年2月・5月追加取材】

櫻井さんのその後の経過を記します。(本人談)

 

 

2023年2月 オンラインで取材

 

 


◆2017年イベント前のリンパ転移◆

実は2017年5月の札幌でのイベント直前(4月)に、リンパ節転移が発覚しました。抗がん剤治療を勧められましたが、イベントを成功させるため3ヶ月先延ばししました。自分の感覚からすぐに抗がん剤治療はせず、アロマオイルと薬草の手当を続けたところ、10月の検査では大きさが横ばいでした。さらに翌年(2018年)1月の検査ではやや縮小、4月には明らかな縮小だったので、抗がん剤治療は見送りました。

思うに、また発病前の私に戻っていたような気がします。イベントの想定を大きくして、北海道全土から来てもらえるように人の為に走り回る。リンパ節転移は、「またやってるよ!」とそのことに気付かせてくれました。そこを修正できたのもよかったと思います。


◆2021年8月 3度目の再発とジブリッシュ◆

さらに2021年8月、リンパが腫れ出しました。娘の結婚式や主人の介護手続きが重なった時期でした。「どうして、またなの!?」自分に問うてみました。娘が結婚してもう札幌に戻って来ない、私ひとりで主人の世話をしなければならない・・・それが受け入れられてなかった。その頃、主人はもうバージンロードを歩けないかもしれないような状態でした。ひとりで抱えこまなければならない鬱積したもやもやした気持ちが体に表われたのかなと思いました。

笑いヨガで負の感情を出していたつもりでしたが、出し切れてなかったようです。そんなときに「ジブリッシュ」と出会って、言葉で出し切れないものも吐き出すことができました。でたらめ言葉で吐き出すと、それを相手もでたらめ言葉で受け止め、返してくれる。すると私の感情の余白部分までもわかってくれているような気持ちになるのです。

3回の抗がん剤治療のときにジブリッシュを実験的にやってみました。ジブリッシュで感情を発露させると負の感情を否定することもなく、また深い気づき(フィードバック)も得られました。


【ジブリッシュ】
意味の無い、でたらめ言葉。「*○@+#&×△」 みたいな。(特定の言語に依らない音言葉)

言葉に付けている“意味”は大切だけれど、時に振り回されてもしまう。だから意味を外して“無”にするのがジブリッシュ。喜怒哀楽もジブリッシュにすると、余計な意味や思考から離れるのでリフレッシュでき、感情の発散にもなる。

 

 

*ジブラボ(一般社団法人 Gibberish-Lab. ジブリッシュ・ラボ)

 

 

 

*ジブラボが運営する「でたらめクリニック」
医療行為は一切なし! 薬も処方しない、提供するのは笑いだけ! 無料 LINE公式アカウントでつながります。

 

 


自分が吐き出した言葉に対して、相手が言葉を返してくれる。でも返してくれた言葉が自分の思いと違ったら「ん!?」となるじゃないですか。言葉は共有しても態度や表情が伴うと、違うニュアンスに受け取ってしまったりもします。ところが不思議なことにジブリッシュは非言語なので、そういう違和感はないのです。だからどんどん出せちゃう。(笑)
 

 


◆がんを手なずける◆

*抗がん剤治療は9クールまで予定されていたが、甚だしい副作用で2022年2月で休止(3クール終了)。2ヶ月治療を休み4月にCTを撮ったら、3cmが1.9cmまで小さくなっていたので、主治医にいったん中止を申し入れる。主治医は難色を示し治療継続を勧めたが、またもし大きくなったら逃げも隠れもせず治療を受けると伝える。その後、2ヶ月に1回の経過観察を続けている。


治療を中止したときは、リンパ浮腫外来のドクターに「旬を逃した女」と言われました。(笑) 抗がん剤の後に続けて分子標的薬で治療をすると効果が期待できるのに、という見解でした。

主治医は、私の腹膜にあるがんが完治することはない、そして再発(腹膜播種、腹水)を想定しています。ということは、私の中のがん細胞が消えることはない。「ならば、また頭をもたげてきた時にどうするか考えよう。そのとき治療が必要なら受けよう」 そう考えました。

周囲の人からは、(効いたのに治療しないのは)不安じゃないですか?と訊かれます。「いや、私の中には(がんは)居るんですよ。ただ悪さをしなければいいと思っているんですよ」と答えています。治療中の方はそれを聞いて戸惑うようですが。

実際、2014年の再発から今回の再発を経験してみると、がんはその都度の治療を乗り越えてきている。だから殲滅しようというより、あまり怖がらずに「がんは無くならない」を前提に、日常生活の質を下げず生きることにしました。そのために、必要なときは必要な治療を受け、治療の休み時・止め時も自分で判断し、自分を進化させて寿命を全うしたいと思っています。

 

 

2023年5月14日 名古屋でのセミナーにて

 

 


【編集長感想】(2023年5月)

櫻井英代さん(ラフターネーム:ひでねぇ)をご存知の方は、「あのひでねぇが、心の声を出し切れてなかったの!?」と驚くかもしれません。でもね、ひでねぇも人間なんです(笑)

ジブリッシュはノンバーバルコミュニケーションで、もしかしたらまだ言葉が発明される前のより本能的なコミュニケーションに近いかもしれません。

櫻井さんのがんは進化しています。それは受け入れるしかない。同時に、櫻井さんも進化しています。「いい人の達人」を極める道を歩みながら、抗がん剤もうまく使ってがんを手なずけている。

これはとても示唆に富んだ生き方だと思います。

 

 

 

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