…続き 四半世紀前のおはなし

 

4月1日 08:00

 

那覇港から鹿児島ゆきの船に乗り込みました。

途中、与論、沖永良部、徳之島、奄美大島に寄港します。

この日は離任式でした。

内地に異動する先生は県都・鹿児島を目指します。

与論島より北は鹿児島県なので、どの島にも

離任した教員を見送る生徒たちの姿がありました。

横断幕に記された歓送の言葉からして、

不勉強な私にも奄美より南は琉球王国だったのだと分かります。

(簡単な解説を下記に書き留めますね)

22:00 奄美・名瀬港。

埠頭には人が海に落ちそうなくらいあふれていました。

横断幕もたくさんありました。

ブラスバンドが歓送の曲を演奏していました。

夜ですよ、22時。

熱烈な見送りですよね。

私なら感動して嗚咽すると思います。

都会と違って教諭と生徒の心の距離が近いのでしょう。

船に乗り込む教員は、

"紙テープホルダ"を持たされていました。

針金ハンガーによる自作らしきそれは、

紙テープを何巻きも提げられる工夫が施されていました。

ホルダを先生が持ち、

紙テープの端のそれぞれを生徒たちが握ります。

ひとりの先生と何人もの生徒がつながっていた証です。

そのような光景は、

モノクロームの資料写真の中であったり、

場を盛り上げるドラマのワンシーンであったりしたので、

その真実を自らの耳目に焼き付けられたのは、

私の生涯の財産だと思っています。

 

離岸と同時に感極まった生徒たちが言葉を投げかけます。

「ありがとう」「お元気で」「さようなら」

こういうのは都会ではあり得ない光景です。

人と人とのふれあいが濃密なのですね。

それがセレモニーだとしてもとても感動しました…

献立

すきしゃぶ鍋

牛肉 行者にんにく 笹切り葱 菜花 白滝 焼き豆腐 卵

〆は細いうどん

すき焼きは本気で作ると鍋に付きっ切りになってしまいます。

鍋奉行は食べてるいとまもありません。

なので今回はしゃぶしゃぶチェーン店を真似てみました。

 

きょうは自分には無縁だと思っていた、

マーケットの品薄を目の当たりにしました。

いつもあるラム肉が無いのは流通が滞っているからでしょうし、

(ジンギスカンから予定変更です)

納豆がひとつも無かったのは仮説に踊らされているのでしょう。

トイレットペーパーもそろそろ無くなりそうだったので、

妻に買いに行ってもらうと

「どこにもないのよ!」

と返されて本当に無いんだと思い知りましたし、

人の噂話だからと無視できないこともあるのだと、

おそろしくなりました。

情報に惑わされず冷静に対処したいものです。

 

 

ここからは小難しい話ですので興味のない方は飛ばしてください。

お付き合いくださりありがとうございました。

 

 

むかしむかし…

奄美大島から南の島々は琉球王国が統治していました。

王府・首里の港、那覇は、

日本、中国、朝鮮、東南アジアとの中継貿易で栄えていました。

そんなあるとき、

薩摩藩主島津氏の命により薩摩軍が侵攻してきました。

貿易による利益を手中に収めたいのと、

奄美群島を支配する策略でした。

琉球王国は成す術なく薩摩に武力制圧されてしまいます。

そして形だけの王制を残し、

琉球として貿易は続けるけれどもその管理は薩摩藩が行い、

同時に与論島以北の奄美群島を薩摩藩の直轄地にしてしまいました。

この時代は江戸時代とほぼ一致します。

沖縄県では「さつまゆー(薩摩世)」と言い表すそうです。

 

ペリー提督来航、開国という流れは省きます。

 

明治政府は琉球を強制収用。

王制を解体し琉球藩を設置、実効支配します。

いわゆる「琉球処分」です。

さらに廃藩置県により沖縄県を設置、

大日本帝国の領土としてしまうのです。

こうして奄美群島は薩摩藩が実効支配していたことにより、

鹿児島県に編入されたのでした。

 

史実はあくまでも史実です。

島の人々には現実の暮らしがあり、平和があります。

薩摩軍の侵攻があったから、

鹿児島県となったのも運命でしょう。

それに反して戦後米軍統治を経験した沖縄県が、

まったく違った歴史に翻弄されているのは、

「琉球処分」と無関係ではない気がします。

近代以前の琉球は日本の統治下になかったので、

大日本帝国が接収した沖縄は植民地同様にみなされたのでしょう。

沖縄に過酷な戦中~現在をもたらしたのは、

他でもないヤマトだったのではないでしょうか。

 

きょうも読んでくださってありがとうございました。