文庫本とは使い捨てなんでしょうか。
そのように扱う人がいるからこそこの小説に出会えたのですが。
遠田潤子氏著「雪の鉄樹」
心に残り、忘れた頃に再読したくなる小説というのは普遍性を持っているのです。
そのように感じたとともに、読了後再び読み始める自分の習性は、
自分の厭う結末の分かっている大河ドラマを観て喜ぶ視聴者と何ら変わりません。
作中の主人公は愚直な大馬鹿野郎です。
自己満足も甚だしい疎ましい奴です。
なのにこの主人公に肩入れさせるよう仕向ける作者の思惑にまんまとはまるのです。
外国人観光客に、礼節と敬意のある人の住む日本という国が評価されているなど構うものかと。
日本人だって恨みつらみはあるよ。
崇拝が異なっても感情は同じだよ。
そのように描かれる登場人物に人の普遍性を感じました。
自分の生い立ちと成り立ちを並列して検証したくなる小説です。
以下ネタバレ…
青少年期をドロップアウトすれすれで生きてきた自分には雅雪の気持ちは共感できます。
しかし遺族の感情を逆なでする自己満足な無神経さには共感できません。
なのに雅雪に感情移入してしまうのは、
雅雪自身が不完全な人格だからその成長を描かれることに快感を覚えるのだと思います。
そして祖母の価値観を押し付けられ葛藤しながら成長する遼平もまた、
雅雪と接することで、両親が無くとも、
家族同然に少年期を過ごしたことにより、家族を持たないよりは、
"雅雪おじさん"が模擬父となった事実と記憶は否定できません。
もちろん雅雪の模擬育児経験値が自らの生い立ちの空白を埋めたことも無視できません。
「持ちつ持たれつ」
その上に人の営みは成り立っているのだとあらためて気づかされました。
ただp288、
とっくにばれていた
この表現だけは腑に落ちないのです。
他に脱字もあったので尚のことです。