本日はミニになります~カワ(・∀・)イイ!!ですよね | Roll Runnerの日常

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以下ウィキペディアより

 

ミニ(Mini)は、イギリスのブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)が製造・販売した小型乗用車である。1959年から2000年までの41年間、一度もモデルチェンジすることなく製造が続けられた。 概要 当時としては珍しかった前輪駆動車で、機械類を小さく、居住スペースを最大限に取ったパッケージングは自動車としての必要最小限を形にした設計で、登場当時革命的とまでいわれた。 長く低迷したイギリスの自動車産業の情勢を反映し、生産・販売会社の名前は幾度も変わったが、40年以上にわたり生産、販売が継続された。1990年頃には、日本の企業がミニの製造及び販売権を取得する計画[注釈 1]もあったが実現せず、1994年以降はドイツのBMWが、ランドローバーと同時にローバーを傘下とし、ミニにまつわる権利も手中にした。 BMWは新規に投入する同社初となる前輪駆動車を「ニューミニ」と位置づけ、それまでのヘリテイジ(資産)を生かしたビジネスモデルとすべく、傘下となった旧ローバーの技術者による車両開発を進め、2001年からイギリスのオックスフォード工場(旧ローバー社カウリー工場)で生産を開始した。 詳細は「ミニ (BMW)」を参照 BMWのミニが登場したことで、初代ミニは「クラシックミニ」「BMCミニ」「ローバーミニ」とも呼ばれる。またスポーツグレードである「クーパー」の名称も高い知名度を誇っている。 日本では優れたパッケージング、愛らしいデザイン、軽自動車相当のコンパクトなサイズなどが評価され、モデル晩年は日本が主要マーケットとなっていた。 ミニは技術的には非常に優れた車であり、今なおミニを称賛する自動車評論家や業界人は少なくない。ただし大ヒット作でありながら、メーカーにはほとんど利益をもたらさなかったとされている。構造が複雑で、ベーシックカーとしてはコストが高かったためであった。 歴史 オリジナルのミニは、1952年に成立したブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)の技術者アレック・イシゴニスの指揮するチームによって設計された。 スエズ動乱とミニマムカー 第二次世界大戦前から在籍していたナッフィールド・オーガニゼーションが、ライバルであるオースチンと合併してBMCになると、イシゴニスは社内の環境に不満を感じ一時的に高級車メーカーのアルヴィスに移籍した。イシゴニスは同社で高級スポーツカーの開発に取り組んだが、結局その量産化は頓挫し、BMCの経営責任者であるサー・レナード・ロードの招きを機に、1955年にBMCに戻ってきた。 この当時の量産型BMC車は、小型車から上級車に至るまで合併前のナッフィールド系とオースチン系のモデルが並立している過渡期にあったが、いずれにしてもやや旧弊な設計のモデルが主流を占めていた。イシゴニスは早速、それらを刷新するためのニューモデル開発に取り組み始めた。 ところが1956年9月、スエズ動乱が中東で勃発し、国際的に石油価格が高騰したことが開発環境の大きな転機となった。 当時、中東の油田依存率が高かった西ヨーロッパ諸国は時ならぬオイルショックに陥った。イギリスの大衆層は排気量1,000 cc 前後のまともな乗用車を維持することが困難になり、当時、西ドイツなどで生産されていた200 - 400 cc の、バブルカーと呼ばれる2 - 3人乗りミニカーを購入するようになった。それらは確かに経済的ではあったが、単気筒もしくは2気筒の空冷エンジンを搭載したけたたましい乗り物で、イギリスの税制では節税になる三輪自動車も含まれ、居住性や操縦性といった本格的な自動車に求められるような性能を欠いていた。 大衆が粗末なバブルカー購入に走るのを憂いたサー・レナード・ロードは、対抗のため自社開発陣に「極めて経済的な4人乗り小型車」の早急な開発を命じ、イシゴニス率いるBMC開発チームは一般的な小型車でなく、既存の自社モデル(オースチン・A30やモーリス・マイナーといった、1,000 cc 未満の小型車)よりもさらにコンパクトなニューモデルの設計を再考することになった。 Aシリーズエンジン ミニマムカー開発を命じた際、ロード会長は「どんなエンジンを使っても良い、ただし既存のラインナップにある中から」という開発条件を提示した[1]。これに従うと、開発陣の選択肢は当時のBMCが生産していたエンジンで唯一の小排気量クラス用エンジンだった850 cc 級のAシリーズエンジン(英語版)直列4気筒エンジン以外にあり得なかった。 AシリーズエンジンはBMC成立直前の1951年、オースチン大衆車向けに著名なエンジン技術者ハリー・ウェスレイクが設計した堅実な水冷エンジンで、オースチンとナッフィールドの合併でBMCが成立した後には、やはりウェスレイクの手でシリンダーヘッド回りを設計された1,500 cc 級・Bシリーズエンジンと共に、BMCの標準エンジンに制定された。3ベアリング・ターンフロー型OHVという何の変哲もない設計であるが、BMCのエンジンでも開発年次が新しく、生産性と実用エンジンとしての資質を兼ね備えていた事もあり、1950年代後期には小型スポーツカーからライトバンに至るまで広く用いられていた。 イシゴニスは当初エンジンのカットによる2気筒化なども検討したが、結局はAシリーズをどうにか流用し、ボディと駆動系のコンパクト化によって経済車に求められる性能を得る判断を下した。 以後、Aシリーズエンジンはミニと切っても切れない関係となり、このエンジンを搭載した他のモデルが生産終了した後も、2000年にミニが生産終了するまで半世紀にわたって生産されることになった。 横置きエンジンと前輪駆動 ロード会長の示した開発条件は、裏を返せばエンジン以外は設計陣にあらゆる手段を用いることを許容するものであった。 イシゴニスは、BMC以前のナッフィールド・オーガニゼーション時代の1940年代中期に手掛けた傑作大衆車モーリス・マイナーの試作過程で、前輪駆動方式の採用を検討したことがあった。そして当時、前輪駆動を前提にエンジンを車軸と並行に横置き搭載すれば、直列4気筒エンジンでもボンネットの前後長を短縮できるという発想に到達していたのである。第二次世界大戦直後の時点では時期尚早で実用化困難であったが、それから10年余りを経てイシゴニスは再びその構想の実現に動き出した。 シャシは既にBMCにとって手慣れた手法になっていたモノコック構造が採用された。それまでのイギリス製小型車にありがちだった、こんもりと盛り上がった背の高いキャビンは、床の低い新しいコンセプトの前輪駆動車ではもはや不要だった。さらなるスペース節減のため、タイヤはバブルカーより若干大きい程度で、まともな乗用車ではほとんど先例のなかった10インチ(in)の超小径サイズがダンロップとの交渉で新たに開発された。 横置きエンジンによる前輪駆動自体は、2気筒の軽便な車両では第二次世界大戦以前から見られたが、一回り大きい直列4気筒エンジンでは実用車として世界でほぼ初採用である。最低限のスペースに直列4気筒水冷エンジンとラジエーターを収めるため、ラジエーターは一般的なフロントグリルの内側ではなく、効率が悪いのを承知で横置きにしたエンジンの左側にレイアウトされた(従って、冷却促進はエンジンのクーリングファンのみが頼りだった)。更にオートバイの手法を応用し、トランスミッションのギアセットはエンジン下部のオイルパンを大型化してその内部に搭載、ギアの潤滑はエンジンオイルを共用する構造とした。 サスペンション形式は、フロントがウィッシュボーン、リアがトレーリングアームであるが、生産性向上対策でサブフレーム組み付けを用いつつも大変にコンパクトに設計されている。これらに組み合わされるスプリングには、一般的な金属ばねではなく、当時ばねの先端素材として注目されていたゴムを採用した。ダンロップの技術者アレックス・モールトンの設計による、円錐状に成型されたゴムばねを用いたラバーコーンサスペンションである。このばねは強いプログレッシブレートを持ち、最小のストロークで最大のエネルギー吸収量を得られるように設計されている。この強いプログレッシブ・レートを持つばねや、フロントが高くリアが路面上にあるという特異なロールセンター設定のサスペンション、量産車としては現代の基準でも驚異的に速いステアリングギアレシオや、回転慣性モーメントやジャイロ効果の小さい10インチタイヤなどによって、ゴーカートとも形容されるようなハンドリングを生む事となった。 更にこの当時(1950年代後期)、イギリスのハーディ・スパイサー社(1966年にGKNが買収)の手で、前輪駆動に適した「バーフィールド・ツェッパ等速ジョイント」が実用・量産化されたことが、イシゴニスのコンセプトをより現実的なものにした。ツェッパ式のボール・ジョイントは、前輪駆動車の旋回時にドライブシャフトが大きな屈曲を伴ってもほぼ等速で滑らかに駆動力を伝達できるという、理想的なジョイントであった。まだ高価なパーツだったが、タイヤが小さくかつサスペンションストロークの小さなミニは、ドライブシャフトのタイヤ側だけにこのジョイントを使えば済んだ(デフ側のジョイントは、旧式だがコストを抑えられるダブルカルダンタイプで間に合った)。 横置きエンジン方式自体は時代に先んじたエレガントな技術革新だったが、ミニと同じ二階建てパワートレインの「イシゴニス・レイアウト」を採用した車種は非常に少なく、イシゴニスが手掛けたミニの拡大版ともいえるBMCのADO14、ADO16、ADO17、ポストイシゴニスのADO27、ADO67以外では、フランスのプジョー・204、304やプリンス自動車時代に設計が始まった日産・チェリーと、ミッドシップのランボルギーニ・ミウラ程度しかなく、より広く普及して一般化したのは、イタリアで1960年代に開発され、トランスミッションをエンジンと直列に横置きして車両内での前後長を短縮したジアコーサレイアウトであった。 FF車のエンジンとトランスミッションの配置はメーカーごとにさまざまであったが、現在では、四輪駆動を主力商品とするメーカーであるアウディやスバルに縦置きエンジンのFFが見られるのみで、ほとんどのFF車はジアコーサ式の横置きエンジンとなっている。

 

 

 

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