80年代とか90年代とかカルチャーを〇〇年代として区切るのは分かりやすい。けれども実際には十年区切りで単純化できるものでもなく年々月々、日々刻々とグラデーションがあるのも事実ですよね。

日本における「邦楽」と「洋楽」の決定的な分断は1985年から86年の間に起きた、とされますが、その時期の英語圏の音楽ポップ・カルチャーで何が起きていたのか、というそんな話を。

西寺郷太の『ジャネット・ジャクソンと80'sディーバたち』第2章「《コントロール》前夜」より。
「1985年」から「1986年」にかけて訪れた変化。ここにもう少しだけ、こだわって論じてみたい。
この年、ポップ・ミュージックは「重大な分岐点」を迎えていた。
~(中略)~
1985年を象徴する大きなイベントは三つあった。
まず一つが、第1章に記した1月28日深夜に録音された〈ウィー・アー・ザ・ワールド〉。リリースは3月7日。
として、1985年にあった象徴的で大きなイヴェントを三つ西寺郷太は挙げるのですが、まず最初の一つが85年のチャリティソング『We Are The World』。"第1章に記した"とあるので、その部分は1章から。
この日、ロサンゼルスの中心部ダウンタウンにあるシュライン・オーディトリアムにおいて「グラミー賞」と並ぶアメリカ音楽界最高峰の祭典「アメリカン・ミュージック・アワード」が盛大に開催された。
~(中略)~
「アメリカン・ミュージック・アワード」は、業界人の投票によって選ばれる「グラミー賞」と違い、ファンからの投票が反映されて選出される。それゆえ「いかにその一年、一般リスナーに自らの音楽が愛されたのか」が純粋に伝わる人気と直結した賞であり、アーティストにとってノミネートされる興奮と喜びもひとしおだという。しかし、この夜は選ばれた者が美酒を分かち合って終わる例年の祝祭とは少々様子が違った。授賞式で表彰されるためにロサンゼルスに集結してきたスター達を、その後更に大きなイベントが待ち構えていたのだ。
それこそが、アフリカの飢餓を救うために企画された一大プロジェクト「USA・フォー・アフリカ」であった。


この「U.S.A For AFRICA」プロジェクトのテーマ曲でチャリティソング『We Are The World』を主導したのが音楽プロデューサーのQuincy Jonesで、作詞作曲は当時のスーパースターである26歳のMichael Jacksonと35歳のLionel Richieの二人。


ライオネル・リッチーのアルバム『Can't Slow Down(日本では『All Night Long』を表題)』は85年のグラミー賞のアルバム部門最優秀賞。マイケル・ジャクソンがクインシー・ジョーンズをプロデューサーに迎えた82年発表のアルバム『Thriller』は後に史上最も売れたアルバムとしてギネス登録されるほどの世界的大ヒット。
プロデューサーがクインシー・ジョーンズとなったのは、82年にDonna Summerの『State of Independence』を制作した経験があったからだと本人は言います。この『State of Independence』のコーラスにはライオネル・リッチーとマイケル・ジャクソンも参加しています。

三人を中心とする『We Are The World』には当時の米国音楽界を代表する面々が集まりました。多忙な彼らがAmerican Music Awardsの一夜に集まり歌う伝説の一曲になったのです。
ひとまとめに「アメリカを代表するレジェンド達」と表現しつつも、世代的に言えば参加者は大きく三つに分けられる。
まずは、60年代、それ以前から活躍していたハリー・べラフォンテ、レイ・チャールズ、スモーキー・ロビンソン、ウィリー・ネルソン、ケニー・ロジャース、ボブ・ディラン、ダイアナ・ロス、ポール・サイモンなど、すでに1985年の段階でロック、ポップ、フォーク、カントリー、ソウル界の重鎮として長く君臨していた「大御所」組。
アメリカ民謡の重鎮Harry Belafonteが呼びかけ、収録場所として自身のLion Share Recording Studioを提供したのがカントリー界の重鎮であるKenny Rogers


"大御所"組はこの二人を中心に、William 'Smokey' RobinsonBob Dylanといったそれぞれの音楽ジャンルの重鎮たちが、「黒人音楽」のソウルやR&Bなど、「白人音楽」のカントリーやフォークなどのカルチャーの枠を越えて集結します。
そして、二つ目が70年代に活動を軌道に乗せこの時期に円熟期を迎えていた「現役バリバリ組」。
ブルース・スプリングスティーン、ビリー・ジョエル、ジャクソンズ(マイケル含む)、ライオネル・リッチー、ダリル・ホール&ジョン・オーツ、ジャーニーのスティーヴ・ペリーもそのゾーンに当たる。60年代初頭に若くしてデビューしたスティーヴィー・ワンダーは〈ウィー・アー・ザ・ワールド〉参加当時脂の乗り切った35歳。その実績と同業者からも「ミュージシャンズ・ミュージシャン」として尊敬を集める比類なき存在ではあったものの、「大御所」と呼ぶにはまだ早かったかもしれない。
クインシー・ジョーンズら三人に次ぐポジションとして曲の制作に関わったのがStevie Wonder。この層には米国白人労働者階級のアイコンであるBruce SpringsteenやニューヨーカーのアイコンであるBilly Joelら。


最後が80年代にメジャー・シーンに鮮烈に登場した「新人」組だ。
シンディ・ローパー、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース、シーラ・Eなど、それぞれミュージシャンとしての長いキャリアを持ってはいたが、このような晴れ舞台に登場するのは前年からの飛ぶ鳥を落とす勢いによるものだったと言えるだろう。
Cyndi LauperとSheila E.はそれぞれ84年の『Girls Just Want To Have Fun』と『The Glamorous Life』が代表作になるのでしょうが、〈Huey Lewis & The News〉は85年に始まる映画『Back to the Future』シリーズのテーマ曲『The Power Of Love』が代表作になるでしょう。ここが当時の流行歌手枠。



紹介している『ジャネット・ジャクソンと80'sディーバたち』という本は、『We Are The World』に「間に合わなかった」Janet JacksonMadonnaWhitney Houstonの三人の"80'sディーバ"に焦点を当てて書かれているのですが、85年3月時点の米国における女性歌手の若手トップは『We Are The World』で歌唱パートを用意されたシンディ・ローパーだったのですね。

第2章部分に戻り、
そして二つ目は1985年7月13日に「一億人の飢餓を救う」というスローガンのもと、イギリスはロンドン郊外のウェンブリー・スタジアムで、アメリカはフィラデルフィアのJFKスタジアムにおいて同時進行で開催された「ライブ・エイド」だ。
企画の中心人物は、前年末に〈ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?〉のリリースにより、一躍「アフリカの飢餓問題」をポップ・ミュージック界最大の議題とした「バンド・エイド」の提唱者、ボブ・ゲルドフ。

Bob Geldofはアイルランド出身で〈The Boomtown Rats〉のヴォーカルとして世に出ます。
1984年、彼は〈Ultravox〉のヴォーカルでスコットランド出身のMidge Ureとともにエチオピアの飢饉へのチャリティを英国とアイルランドのミュージシャンたちに呼びかけました。応急処置の絆創膏にちなんだ「Band Aid」として当時の英国文化圏のスターたちを集め、〈The Buggles〉と〈Yes〉のヴォーカルを経て英国ポップを代表する音楽プロデューサーとなるTrevor Horn制作のチャリティ・ソング『Do They Know It's Christmas?』を12月3日に発表。


「クリスマスに食事を分かち合おう」と歌うクリスマスのシーズン・ソングとして発表されたこの曲は12月末までに300万枚を売り上げ、当時の英国における最多販売記録を樹立し、以後、十年以上この記録は破られていません。


「U.S.A. For Africa」は、『Do They Know It's Christmas?』の英国での成功に触発された米国からのメッセージでもあるのですが、『We Are The World』の録音から半年後の1985年7月、「Band Aid」は英国のウェンブリー・スタジアムと米国フィラデルフィア州のJFKスタジアムの大西洋の両側でチャリティ・コンサート「LIVE AID」を開催。


この20世紀最大のチャリティ・コンサートは、世界84ヵ国で衛星同時生中継され、録画放映分も含めれば約19億人が目撃したと言われている。
ところが、英国サイドが仕切る「LIVE AID」は成功に終わりますが、米国サイドでは問題が続出します。
ロッド・スチュワートの原因不明の出演辞退、ブルース・スプリングスティーンもプリンスも、そしてそもそも「USA・フォー・アメリカ」の精神的支柱だったはずのマイケル・ジャクソンとスティーヴィー・ワンダーも出演の噂は流れたものの会場には現れなかった。わずか半年前、「アフリカ難民のため」という「夢や希望」に満ちて一緒にレコーディングしていた豪華メンバーもこの時期には我に返り、それぞれのエゴや美学を守るため、現実の波に打たれる中で分裂してしまっていたのだ。
~(中略)~
英国ウェンブリー・スタジアムで、エルトン・ジョンとともに〈僕の瞳に小さな太陽〉を歌った「ワム!」のジョージ・マイケルは『自伝 裸のジョージ・マイケル』(CBS・ソニー出版)において、現場の雰囲気をこのように回想している。
「ライブ・エイドは、その背景にある感情が純粋だから楽しかった――少なくともイギリス・サイドではね。フィラデルフィアではつまらない喧嘩がいろいろあったって話を聞くけど、こっちでは、イギリスのバンドはナーバスになりすぎててほとんど前に出て行けなかったくらいだから、出番なんかでもめることもなく、とてもうまくいったんだ」
英国サイドではチャールズ皇太子が近衛兵〈Coldstream Guards〉を率いて開幕に臨んだこともあり、ミュージシャンたちが一致してチャリティを盛り上げたのですが、米国サイドでは序列争いでGeorge Michael言うところの"つまらない喧嘩がいろいろ"発生し、一致することはできなくなっていたのです。


ライオネル・リッチーは参加するもマイケル・ジャクソンは参加せず、ハリー・べラフォンテは参加するもケニー・ロジャースらカントリー勢は参加せず、スティーヴィー・ワンダーもブルース・スプリングスティーンもビリー・ジョエルも参加しない。ボブ・ディランらフォーク勢は参加するも時代遅れとブーイングを受け、シンディ・ローパーは参加せず代わりにマドンナが参加して若手女性歌手トップの座を奪います。
マイクを譲り合う英国サイドの『Do They Know It's Christmas?』に対し、「when the world must come together as one」と歌い、大団円となるべき、米国サイドの『We Are The World』では最後までマイク争いが続き、亀裂は誤魔化しようがなくなっていました。
現在の視点でライブ・エイドを振り返ってみると、ロンドンという狭い音楽世界の中で顔見知りも多く、比較的若い世代が中心となったイギリスに比べ、人種・世代・暮らす街ともにあまりにも極端な振れ幅を持ったアメリカ側は一本の筋を通してまとめるのは困難だったように思う。
これが1985年夏に起きたことです。

このアメリカ音楽界の亀裂がようやく修復されるのは2010年。ハイチ地震に際し再び『We Are The World』が英語とスペイン語で歌われます。80年代の人びとには受け容れられなかった"振れ幅"も、2010年代に入るころには当然あるべきものとして、少なくともミュージシャンたちには受け容れられるようになっていたのです。
一方の英国サイドでは、ボブ・ゲルドフと同じアイルランド出身の1985年当時は若手で「LIVE AID」ではなぜか日本の学生服姿だった〈U2〉のボノが「重鎮」となって歌い継がれています。


リンクしてあるのは、U2の『One』。
1991年発表のこの曲のテーマは「One - but not the same」