――女性アイドルの多様化と拡散(4)――


1990年代以降、「脱思春期」を果たさなければならなくなった日本のアイドルは昭和アイドルの「疑似恋愛」を提供するビジネスモデルから脱却しなくてはならなくなります。
その過程でいわゆる90年代の「アイドル冬の時代」と呼ばれる状況が生まれました。

1970年代80年代の「アイドル歌手」が平成に入って成立しなくなり、昭和の時代のアイドルが総合的に担当していた役割はこの時代に分業化されたのです。
90年代といっても1995年を挟んで前半と後半でカルチャーは違うのですが、より明確になった90年代後半を事例とすれば、演技は広末涼子らの若手女優、音楽は〈PUFFY〉らのようなガールズバンド的なスタイルが担い、ダンスは安室奈美恵や〈SPEED〉ら、ファッションは吉川ひなのらのモデル、水着グラビアは雛形あきこらのグラビアアイドルといった形で分業化し、女性アイドルの多様化と拡散がされて、「(女性)アイドル」という言葉が人によって異なるイメージを指すようになって共有できなくなるわけです。……まぁ、90年代、しきりに「これからはジェネラリストよりスペシャリストの時代だ」なんて言われてもいましたから。

結果、「アイドル」という言葉自体が90年代には古臭い旧時代のものとなって廃れ、いわゆる「アイドル冬の時代」となったのですが、ここでもう一つ「アイドル」という言葉の混乱が起きます。
昭和の時代ならばピンナップガールなどと呼ばれたジャンルに属する女性たちが90年代に改めて「グラビアアイドル」としてアイドルを名乗り始めたことで、グラビアアイドルたちが追放されたアイドル歌手に代わってテレビに代表されるマス向けメディアに席を用意され、大衆にはグラビアアイドルこそがアイドルの本流として認識されてしまったのですね。


『平成アイドル水滸伝』より。
「脱思春期」をどのように実現するかは、平成女性アイドルにとって差し迫った課題になった。
たとえば、広末涼子だけでなく、平成の多くの若手女優たちが、単純明快なラブコメや学園ドラマだけではなく複雑な社会事情を反映した多様な作品に出演するようになったことは、その意味できわめて重要なことだろう。広末はじめ、宮沢りえ、菅野美穂、宮崎あおい、深田恭子、上戸彩、新垣結衣、広瀬すずといった平成以後の若手女優たちは、楽曲ではなくドラマや映画、CMなどといった映像作品を自分たちの「ホーム」とし、それぞれの流儀で「脱思春期」の可能性を示そうとした。
2021年の東京オリンピックを契機に「90年代サブカル」というものが問われましたが、当時のアイドル的存在であった彼女たち若手女優も思春期や清純派のイメージを脱却する作品に積極的に関わって処女性のようなものを振り払おうとしていました。
そのなかでアイドル歌手も、時代の変化に呼応するかのように恋愛だけにとどまらず人生を真正面から歌うようになっていく。たとえば、モーニング娘。は20世紀から21世紀への変わり目でリリースされた「I WISH」や「ザ☆ピース!」において、「恋愛より人生」というメッセージを歌った。それは、アイドルが思春期限定のものだった昭和にはなかったことだった。
「アイドル冬の時代」は1997年に〈モーニング娘。〉が結成され98年にメジャーデビューした時をもって終わるとされます。
ですが、その〈モーニング娘。〉ももともとは〈シャ乱Q〉のプロデュースする「女性ロックボーカリストオーディション」として集められた候補者の中から選ばれていて、アイドルではなくロックボーカリストとして募集がかけられています。
初期の段階ではアイドルじゃないんですね。冬の時代の間に昭和型のアイドル歌手の居場所は無くなっていたのです。

昭和アイドルの時代が終わり「アイドル冬の時代」が具体的にいつ始まりいつ終わったのか? となると、一般的には〈Wink〉が『淋しい熱帯魚』をヒットさせた1989年と翌90年の〈PINK SAPPHIRE〉の『P.S.I LOVE YOU』と〈LINDBERG〉の『今すぐKiss Me』(それぞれのヴォーカルである塚田彩湖と渡瀬マキは同じ芸能スクール出身)のヒットの間に線が引かれてアイルドル歌手から女性ロックボーカリストの時代が始まり、以後、〈ZARD〉や〈Every Little Thing〉らのようなアイドル歌手的ヴォーカルをフロントに据えるスタイルが主流の90年代を過ぎ、〈モーニング娘。〉に「国民的アイドル」の冠が付けられた2000年に終わる、ということになるのでしょう。
ですから90年代がまるまる女性アイドルの氷河期だったことになります。

そう昔を思い出しつつ今現在を考えると、「アイドル戦国時代」が終わり、最近はあのの〈I's〉やアユニ・Dの〈PEDRO〉はじめとする女性アイドルのバンドヴォーカル化は90年代回帰感があるんですよね。元AQUBIグループのヨネコの〈ん・フェニ〉の『FUNNY TATTOO SEAL』は現代の〈PUFFY〉って感じだし、アイドル時代を黒歴史化したロクの〈PhatSlimNevaeh〉の『』は一つの時代の終止符として聴いて欲しいところ。


……今年最初の記事になるから、2021年の一曲を私が(ポップでメジャーな音楽の中から)選ぶならば、



90年代当時は若手女優だった松たか子が、〈BAD HOP〉のT-Pablow、Daichi Yamamoto、〈Yurufuwa Gang〉のNENE、 BIMKID FRESINOらと歌ったこの『Presence』かな。90年代から30年が経って世代が一巡する2020年代の始まりの21年の象徴的な一曲として。
そういえば、松たか子と安室奈美恵は1977年生まれで同い年でした。90年代当時に清純派アイドルの役割を担っていた代表としては広末涼子より彼女の方が妥当かもしれない。


話を戻し、
I WISH』は2000年9月発売、『ザ☆ピース!』は01年7月発売ですが、映画『あの頃。』(とその原作)には「中学10年生の夏休みのような、そんな毎日が永遠に続くような気がしていた」とコピーが付けられています。00年代前半のハロプロ全盛期の熱狂的ファン層は思春期を過ぎた成人男性であり、アイドル空白の90年代に思春期を過ごした遅れてきたアイドル・ファンだったわけです。そもそも〈モーニング娘。〉及びハロプロ初代リーダーの中澤裕子もオーディションのあった97年時点で24歳と思春期と呼べる年齢ではありません。
であれば、〈モーニング娘。〉を起点とする現在の女性アイドルはティーンエイジャーのものでは最初からなかった、ということになるでしょう。
ただそれらはまだ明るい、その意味ではアイドルの古典的イメージを踏まえた"人生賛歌"だった。だが、平成独特の生きづらさの感覚がさらに深まった2010年代になると、よりシリアスに人生の困難を歌うアイドルも登場した。
乃木坂46や欅坂46は、その代表だろう。とはいえ、両グループの表現スタイルは、対照的だ。
乃木坂46の場合は、「君の名は希望」のように深い孤独、生きる感覚の喪失状態からの救済を叙情性あふれるスタイルで歌う。一方欅坂46の場合は、「サイレントマジョリティー」のように決まった価値観を押し付けてくる周囲の世界に対して強烈な反発の念を隠さず、自分らしく生きる自由を主張する。
しかしどちらの歌も、平成の生きづらさがそうであるように「子ども」か「おとな」かという世代を選ばないし、思春期かどうかを問わない。さらには「僕」や「僕ら」という一人称で彼女たちがそれらの曲を歌うように、男性か女性かという性別も選ばない。
2000年代前半が〈モーニング娘。〉らハロプロの全盛期で、後半になると〈AKB48〉が勃興していき「国民的アイドル」の冠がハロプロから48グループに完全に切り替わるのは2008年から09年の間。
ただ、この時は「まだ明るい」時代だったのでしょう。
歌は世につれ、なんて言いますが、決定的に変わってしまったのは2011年3月の東日本大震災。平成という時代においては1995年の阪神大震災に続く二度目のカタストロフです。

11年8月結成の〈乃木坂46〉は00年代の「セカイ系」の影響を引きずりつつ「透明人間 そう呼ばれていた 僕の存在 気づいてくれたんだ」と歌う『君の名は希望』のようなまだ内向きな歌でしたが、15年結成の〈欅坂46〉になると『サイレントマジョリティー』『不協和音』のように外に向けたプロテストソングの傾向を強めていきます。
政治的なアイドルソングというと、この頃の欅坂ばかりが語られますが、1999年発表の『LOVEマシーン』で「日本の未来は 世界がうらやむ」と歌っていた〈モーニング娘。〉も2010年代に入れば『BRAND NEW MORNING』として「なんにも持たざる私に何ができるの? なんにも失うもの無い今の君は 誰よりも最強」と無産階級を歌い、労働者階級を歌う〈ももいろクローバーZ〉の『労働讃歌』であるとか、連帯を歌う〈BiSH〉の『DEADMAN』など、昭和アイドルの時代に生きた人たちからすれば、それ以前の学生運動の時代に属するような古めかしい言葉が使われるようになり、ジャニーズまでもが赤旗をモチーフにするようになるのが2011年以降の時代。それが「モチーフ」に過ぎないとしても。

……最近、気になるのは〈櫻坂46〉の新曲『流れ弾』センターの田村保乃、〈NGT48〉の新エース小越春花、〈SKE48〉の別動隊〈カミングフレーバー〉を率いる野村実代ら、秋元康プロデュース系チームの次期エース級が一斉に「革命」という(本人たちのキャラクターも含め)あまり若い女性が日常的に使うとは思えない言葉を使い始めているのを見ていると、そういうレクチャーがあったのかな? と。内省→抵抗ときて、次のトレンドは革命?



もう一つ気になるのは、日本で国政選挙が行われるたびに、「欧米では芸能人が投票に行ったことをアピールするのに日本の芸能人はそれをしない」や「韓国のアイドルと比べて日本のアイドルは投票アピールをしない」なんてツイートも目にするのだけど、日本の女性アイドルはこの『ザ☆ピース!』の「選挙の日 ウチじゃなぜか 投票行って 外食するんだ 奇跡見たい すてきな未来」という歌詞を使って投票アピールするのがお約束になっているのに、そう言ってしまう人たちは何を見ているのだろう?

平成アイドルの「脱思春期」という意味でもう一つ重要なのが、
また指原莉乃のように「恋愛禁止」ルールを逆手にとってしたたかに生き抜いていくアイドルが登場したのも、「脱思春期」のひとつの表れと言えるだろう。
「恋愛禁止」ルールは疑似恋愛の対象として昭和的なアイドル像がいわば形式的に残ったものだが、それゆえにドキュメンタリー性を担い、本人の生きかたそのものが重要視される平成のアイドルにとっては扱いづらいものである。そのなかで指原莉乃は、自らの恋愛スキャンダルが舞い起こった際、逆にそれをバネにして飛躍を遂げた点で、新たなアイドルの生き方を示した。
90年代にアイドルが「脱思春期」を志向した時点で「恋愛禁止」という昭和のルールは実質的に廃棄されているはずなのですが、大衆の間では昭和アイドルのイメージが根強く残り、たぶんアイドルが恋愛したのならば山口百恵のように21歳でマイクを置いてステージから去ることが理想化されているのでしょう。
しかし実際には、「恋愛禁止」アイドルの代表と大衆にイメージされている48グループでもメンバーも運営も恋愛禁止なんてルールは無いと発信し、ほとんどのファンも気にしていない。



その証明となるのが指原莉乃の存在であるし、AKBの「恋愛禁止」問題で世界的に象徴化された峯岸みなみにしても去年21年まで在籍して円満に退団しています。

昭和のアイドルならば致命的なスキャンダルであっても、平成のアイドルは思春期の疑似恋愛を提供する存在ではないので、ファンは問題視するというよりも、それも含めて(良くも悪くも)面白がるように変化しているのですね。
これは他のグループでも同様であり、例えば、ディアステでは〈でんぱ組.inc〉の古川未鈴が現役アイドルのまま普通に産休を取っていますがそこに付けられたファンのコメントに問題視するようなものは見えませんし、最近、話題になったものだと〈ZOC〉の巫まろの「文春砲」があったけれど、



彼女を説明するときにマス向けメディアが現在所属する〈ZOC〉ではなく「元ハロプロアイドル」として紹介するのは現実の恋愛も取り込んだ現在のアイドル像ではなく旧時代のアイドル像に近づけたイメージを喚起しなくては「スキャンダル」として報じられないからなんだろうな。
現在のアイドル界トップにいる〈BiSH〉のアイナ・ジ・エンドが恋愛をスキャンダルとして報じられた際には発売日に合わせて相手とされたギタリストを招いて『SEXFRiEND』とセッションしてみせたくらい。

恋愛もドキュメンタリーとして取り込みスキャンダルとはならないのが今現在。
恋愛がスキャンダルとして報道されて大騒ぎするのは、ネットリンチを楽しみに集まってくる普段はアイドルになんの興味も持っていない層であり、ファンも運営会社側も「気にしないで」と慰留するのが実際ですよね。
こうした平成の女性アイドル全般における「脱思春期」の動きは、さまざまな帰結をもたらした。
たとえば、「エロ」が衰退する傾向はその一つである。
アイドルにおける「エロ」の要素は、思春期の問題と切り離せない。言うまでもなく男性ファンが女性アイドルのグラビアなどにも求める「エロ」のベースには、アイドルに対する思春期特有の恋愛感情、そして性の目覚めがある。
ところが先述したように、女性アイドルグループが「恋愛よりも人生」を歌い、また歌の主語として「僕」などを使うようになるとき、恋愛や性の要素はどうしても希薄になる。確かに平成にはグラビアアイドルが登場したが、それもやがて先細りになり、雑誌のグラビアや写真集はAKB48グループや坂道シリーズのメンバーが中心を占めるようになっていった。たとえば乃木坂46の白石麻衣などが代表格だが、「エロ」よりもむしろ「美」を追求したような彼女たちのグラビアや写真集には、同性である女性の支持も少なくない。それもまた、大きく見ればアイドルの「脱思春期」化がもたらした流れだろう。
脱思春期・脱疑似恋愛を果たした結果、平成のアイドルから「エロ」は希薄化していきますし、同時に脱思春期化と恋愛や性の要素の希薄化はエイジズムやルッキズムからも女性アイドルを解放しつつあります。

「韓国のアイドルと比べて日本のアイドルは歌やダンスをやらずに水着グラビアばかりやってる」なんてのもテンプレートとして見かけますが、それって歌やダンスを見せるライブアイドルとはジャンルの違う、グラビアアイドルと混同しているのでは?



言われるほどアイドル歌手の末裔であるライブアイドルは水着グラビアをやっていないはずなんですよね。
例えば、マス向けメディアをほぼ独占している最大手の(ライブアイドルに含むのかは疑問があるけど)坂道グループは雑誌の水着グラビアのような仕事は一切せず、アート寄りな写真集でしか基本、肌を見せない方針でやっています。
この辺り、元〈乃木坂46〉の中田花奈とグラビアモデルの馬場ふみかの『週刊プレイボーイ』の対談記事のなかで、
乃木坂46に入りたての頃にもインタビューで「グラビアやりたい」ってことをしゃべっていて、乃木坂46の範囲内でできる洋服のグラビアもいろいろやらせていただいて
と中田花奈が語っていますが、坂道グループ在籍中の範囲内でできる雑誌グラビアは洋服を着ているものだけで、本人が希望を出しても水着グラビアの仕事はできません。写真集も白石麻衣別格として、普通のメンバーは退団時に卒業アルバム(ファンたちの表現を使えば「退職金」)のように制作されるだけですし。

「日本のアイドルは疑似恋愛を売ってる」「日本のアイドルは恋愛禁止」「日本のアイドルは水着グラビアばっかり」どれも昭和アイドルの時代やアイドル冬の時代に植え付けられた古い固定概念や印象に基づく発言なんでしょう。
ただ、そういうの、興味を持たないと知らないですよね。ライブアイドルがいて、グラビアアイドルがいて、他にも声優アイドルなどがいて、それぞれジャンルが分かれている、と。
もちろん、グラビアアイドルの〈#ババババンビ〉や声優アイドルの〈DIALOGUE+〉のようにライブアイドルとしての活動にも力を入れる越境的チームもあるし、逆にライブアイドルが水着グラビアや声優をやることもあるので混同する人がいるのも分かります。
「韓国と比べて日本は~」と言う人にも分かるよう説明しておくと、日本のグラビアアイドルに相当する韓国の存在はアイドルではなくフィットネス・インストラクターだと認識すれば混同せずに済むはずです。
また、韓国においてアイドル・カルチャーとバンド・カルチャーの相互乗り入れをメジャー志向でやっているものとして、LØRENに私は今、注目しています。



この『ALL MY FRIENDS ARE TURNING BLUE』MVを見つつ「喫煙文化が復活? アメリカで20年ぶりにタバコ販売数が増加した理由」(原文は『New York times』紙の「That Cloud of Smoke Is Not a Mirage」)なんて記事も思い出したけど、まあ「rebellion」したい気分は世界的に充満してはいるんだろうな。LØRENなんて韓国でトップクラスに金持ちのおぼっちゃんなのに。

ついでに紹介しておきたいのは、『朝日新聞』に大和田俊之が連載している「ポップスみおつくし」での「ラップの新カルチャー」という記事。
2021年のアメリカの音楽界、とりわけラップミュージックなどの黒人音楽シーンを振り返ったときに、ひとつのキーワードとして浮上するのが「レイジ(rage=怒り)である。
この言葉はまずラッパーのトリッピー・レッドが昨年5月に「ミス・ザ・レイジ」をリリースしたときに注目を浴びた。ビルボードの総合シングルチャートで11位に上がる大ヒットとなったこの曲は、ゲーム音楽を彷彿とさせるシンセサイザー音が過剰なまでに強調され、一部のヒップホップファンはそれを「レイジ」と呼んで熱狂的に支持したのだ。
なんで急にヒップホップの話? と思われるかもしれませんが、この22年1月27日付の記事を読んでTrippie Reddの『Miss The Rage』MVを見直すと、なんというか、最近の日本におけるガソリンを使ったいくつかの事件によって妙なリアリティで迫ってくることを書き残しておきたかったから。


2010年代に入ってからのラップミュージックのコンサートは急激に変化し、主にヘヴィメタルやパンクロックのライブで見られるモッシュ(観客同士が激しくぶつかり合うこと)やダイブ(ステージ上などから観客に向けて飛び込むこと)などの行為が常態化していた。それは社会学者の南田勝也が指摘する1990年代以降のロックコンサートの変化、すなわちライブの「身体化/スポーツ化」を意味する現象でもある。
で、こうした米国においてヒップホップ「現場」での2010年代からの「レイジ」な変化が日本においてはアイドル「現場」で起きていたのかな、と、ふと考えたことも記しておきたかった。


『平成アイドル水滸伝』に戻ります。
もうひとつ、「脱思春期」がもたらしたように思われるのは、女性アイドルグループの大人数化である。
AKB48をはじめとして、平成は女性アイドルグループの大人数化が進んだ。それは、昭和が山口百恵や松田聖子などソロアイドル歌手全盛だったことと鮮やかな対比を成している。
ただ、ここでひとつ確認しておきたいのは、AKB48グループにせよ坂道シリーズにせよ、そこにあるのはソロかグループかの単純な二者択一、グループによるソロの否定ではないということである。
AKB48や乃木坂46の本業は歌手である。だが「AKB48選抜総選挙」が示すように、ドキュメンタリー的な面白さがそこには密接に絡んでいる。その背景にはやはり、アイドルが「恋愛よりも人生」を重視し、それぞれのリアルな生き方を提示しようとするようになった「脱思春期」化の流れが見て取れる。
~(中略)~
大人数化した平成の女性アイドルグループには個人事業主の集合体のような一面がある。言い換えれば、個々のメンバーの生きかたはそれぞれの自由意志に任される。
秋元康は「AKBというのはあくまで途中経過。ステップ台」「次の台が見えて足がかかったら卒業すべき」と言いますが、〈AKB48〉が2005年当時に新しかったのは、女優志望者も歌手志望者もモデル志望者も声優志望者もグラビアアイドル志望者も全部ひっくるめてチームという形で再統合し、異なる人生を持つ大量のメンバーが自由に動き回りつつ競うところをドキュメンタリー的な面白さとして提示したところにあったのでしょう。48グループ出身者のなかで現在、音楽的に最も成功しているのが木下百花なのも面白いところ。
こうした部分を無視して、「キャバクラ商法だ」みたいなことを言うのはミソジニー的でインセル的な発想だと私は思うな。
そして平成が終わり、新しい令和の時代が始まった。しかしアイドルたちの「脱思春期」を目指す戦いはいまも続いている。その戦いの決着がどのようなかたちでつくのかは、まだ定かではない。それは、既存のアイドル像をベースにしたリノベーションになるのだろうか、それともすべてを一度ご破算にして一から再構築するスクラップ&ビルドになるのだろうか?
と、2020年2月発行のこの本は問いかけるのですが、この発行直後にパンデミックの時代が始まり、ライブアイドル含むミュージシャンたちの拠って立つ「ライブ」ができなくなる時代が今の時点で2年近く続いています。
リノベーションではなくスクラップ&ビルドしなければならない状況に強制的に追い込まれているのが今現在の私たちが見ている光景なのでしょう。



リンクしてあるのは、Official髭男dismの『Anarchy』。

この記事群の最後に流す曲は〈RADWIMPS〉の『SHIWAKUCHA』ft.Awichと迷ったのだけど、どちらにしろミュージシャンたちが恋愛を歌っている場合ではなくなっているのが、今という時代なのかもしれません。