―― 48 Universe (6)――

前期AKB48を代表する前田敦子とは中学の同級生で、3期生としてAKB48に入団し、現在はアニメ声優として活動する仲谷明香(1991年生まれ、在籍2006~13年)の書いた『非選抜アイドル』より。

AKB48は、二〇〇五年の十二月にスタートした女性アイドルグループである。その最大の特徴は、「メンバーの数が多い」ということと、「はっきりとした形が決まっておらず、時間の経過とともにどんどん変化している」ということである。
二〇〇五年に始まった時、AKB48のメンバーは二十人だった。そこから二期生、三期生が加わることによって、「A」「K」「B」の三チーム、十六人ずつの計四十八人に増える。その後四十八人の状態がしばらく続くのだが、そこからさらにオーディションを重ね、多数の研究生を擁するようになった。あるいは、SKE、SDN、NMB、HKTと姉妹グループが次々と生まれ、
~(中略)~
その正確な人数が現在何人なのか、把握している人はほとんどいないだろう
「48というからには48人組なんでしょ」という時期も16人×3チームであるにはありましたが、チームの補欠にあたる研究生を含めれば短い期間でしかありません。
2008年に名古屋栄のSKE、09年に未成年メンバーがステージに出れない夜公演を担当するSDN(SaturDayNight)、10年に大阪難波のNMBが結成される頃にはメンバーの総数はAKBだけでも百名を突破。10年11月には世界で最も大きなポップ・グループとしてギネスに認定されています。

こうして巨大グループとなったAKB48グループですが、2011年3月11日という日に向き合うことになります。

AKB48グループの被災地訪問の第1回がおこなわれたのは、2011年5月22日です。
~(中略)~
AKB48グループの被災地訪問の基本は、この1回目の訪問で形が作られました。

①機材は全て持ち込む
②メンバーは6人が原則
③ミニライブをおこなう
④ライブ後には可能な限りハイタッチ会をおこなう
⑤自分のことは自分でやる

①は「ステージトラック」を使うことで問題点がかなりクリアできました。ステージトラックというのは特別に改造したトラックで、お祭りやイベントなどに使われています。荷台を開くとそのままステージになるので、広場や校庭、駐車場などがあれば、どこでもライブをおこなうことが可能です。自家発電機を備えており、PA(音響)などの電源もまかなうことが可能です。水や食料も全て持ち込み、できるだけ地元の方に負担をかけないよう尽力しました。「広場さえ貸してくだされば大丈夫です」が合い言葉となりました。
②は、そのステージトラックの広さからすると、6人くらいがちょうどいいのと、ライブの見栄えも必要なので6人を原則にしました。移動も大変なので、スタッフを含めて1台の小型バスで移動できることも重要でした。
③と④は、アイドルが行って何ができるかを考えた時、やはり歌って踊って、ひと時でも皆さんに楽しい気持ちになっていただくことが一番重要だと考え、必ずミニライブをおこない、可能な限りハイタッチや握手などをおこなうようにしました。瓦礫や泥の除去作業、様々な片付けのお手伝いや炊き出しなども考えたのですが、AKB48のメンバーがそんなことをやっても大してお役に立てそうにもないので、それは別のNPOやボランティアの方にお任せして、得意なことで頑張ろうということです。
⑤は、AKB48はアイドルでタレントなので、普段の仕事の場合はヘアメイク、スタイリスト、マネージャーなどが当然付いているのですが、被災地での活動ではそんな贅沢は言ってられません。スタッフも少人数ですし、メンバーのケアを充分におこなうことはできません。メイクは通称「自メイク」と呼ばれる「自分でやるメイク」です。初期の活動ではAKB48衣装を使わず、Tシャツにジーンズでライブをおこなっていたので衣装さんもいません。
そこで、「自分のことは自分でやる」を原則にしました。

被災地でのミニライブ用に6人バージョンでの振りやフォーメーションは振り付けチームに作ってもらいました。当日はあまりリハーサルする時間がないので、前日までに「振りV」と呼ばれる、参考のDVDを参加メンバーには渡しておき、自主練習をお願いしています。

AKB48グループは地震発生の3日後には5億円の義援金を集めて送ることを発表。5月から『「誰かのために」プロジェクト』として東北沿岸部を中心に6人編成の小分隊による慰問団を送り込み、現地からも発信をすることは、巨大なAKB48グループにしか出来ない機動力と規模でした。
このことにより、AKB48は「アキバ発の地下アイドル」から「国民的アイドル」へとなったのですね。
そして、現地で慰問団を見た少女たちがアイドルを目指すようになります。

福島県出身の舞木香純(在籍2014~18年)は、
福島県広野町にある広野中学校に通っていました。あの日は卒業式があり、式が終わってから部活のバレーボール部の練習をしていました。そして地震が来て、みんなで校庭に避難しました。みんなパニックになって、私も泣いてしまいました。広野中学は高台にあるので、町の人たちが避難するために坂を上ってきました。学校から町が見えるんですけど、町が津波にのみこまれるのをみんな見てました。私は怖くて見られませんでした。
~(中略)~
まもなく広野町からの避難指示があり、家族と一緒に親戚の家に一時避難しました。その後、町からもみんな避難することになり、通っていた中学校も再開できなくなったので、近隣の町にアパートを借りて暮らしていました。中学校も転校しなくてはなりませんでした。
2013年の3月11日、震災から2年目の日、いわき市にやってきたAKB48の被災地訪問ライブを見にいきました。震災以降ずっと暗い気持ちだったのですが、これが一番楽しい瞬間でした。私がチーム8のオーディションを受けたのはこのライブを見たことがきっかけです。
宮城県仙台市出身の佐藤朱(2014年~)は、
私が震災を経験したのは中学2年生の時でした。その日は翌日に控えた卒業式の準備をしていて、その最中に地震が起きました。机の下に潜り、必死に机の足につかまっていました。4分弱揺れていたそうですが、もっともっと長く感じました。
地震から1時間ほどたった時、中学校には地域の方が大勢集まり、一気に学校は避難所になってゆきました。校舎の4階に上がり、窓から学校の外の景色を見ました。私はその光景が何なのか、初めは理解できませんでした。それは津波が学校の校門のすぐ手前まで静かに迫ってきていたのでした。そして、静かに雪が降ってきました。
その夜は電気もなく、学校の外で何が起きているのかも分からないまま、取り外したカーテンにくるまり、余震の絶えない中、不安な夜を過ごしました。窓の外の海の方向は一晩中火事が燃え盛っていました。やっと朝が来た時の喜びを、今でも私は覚えています。家族と再会できたのも夜が明けてからでした。
~(中略)~
避難所に電気が通ったのは2週間後で、お風呂に入れたのは10日後でした。体育館での共同生活はプライベートな空間はありませんでした。日常は一気に奪われてしまいました
~(中略)~
自宅は津波の被害に遭い、家に戻ることはできませんでした。瓦礫の山が家を覆いつくし、近づくこともできません。おおかた瓦礫が片付いた後も道路の隆起が酷くて通ることが困難でした。改修工事が終わり、再び自宅で暮らせるまでに2年ほどかかりました。そうしてだんだん景色が戻りつつあった時、AKB48のみなさんの被災地でのステージを見させていただきました。家族と一緒に体育館でのライブにでかけ、本当に楽しいひと時を過ごすことができました。私がチーム8のオーディションを受けた動機は、被災地訪問でのステージを見たことです。
岩手県出身の佐藤七海(2014年~)は、
震災の時は、仙台市若林区にある小学校に通っていました。学校で帰りの会をしているいる時にガタガタと揺れてきて、最初はあまり地震は強くなかったんですけど、次第に大きくなってきました。
~(中略)~
私の教室は4階にあり、かなり揺れました。教室にいるのは危険なので、校庭に出ることになったんですけど、その後も余震がひどく、階段も降りられないような状況でした。そこで親が迎えに来るのを待っていたんですが、頭から血を流している人もいました。
その後津波が来るかもしれないので、再び校舎に戻り全員3階以上に避難しました。そして津波がやってきました。周りの人がみんな立ち上がって見ていたので、小さい私はあまり見えませんでした。津波は学校の手前で止まりました。
自宅は全壊したので、その日から避難所で生活をすることになりました。
~(中略)~
その後は、親戚の家に一時身を寄せ、生まれ故郷の岩手県に一家で戻りました。
~(中略)~
生まれ育った岩手県も、震災の時に暮らしていた宮城県も被災してしまって、いつか自分に関わるすべての人に元気を届けることができるようなアイドルになりたいと思っています。
2011年の大震災を経て、AKB48はアイドルと言うよりは「国民的チアリーダー」とでも呼べる位置に就き、それがあっての翌12年の東京ドーム公演というゴールに到達したわけです。
そして、このチアリーディング・チーム化によって、オーディションにはそれまでと異なる人材が応募してくるようにもなりました。
例えば、ここで紹介した佐藤朱は2013年にテニスでインターハイに出場し、その翌年にアイドルになる、という経歴で、AKB48入団後も総選挙よりも競技を優先するような活動をしてきました。

「AKB48」というと、「あんなの水商売みたいなもんだろ(笑)」といった反応があるものです。
実際、初代AKB48劇場支配人の戸賀崎智信(73年生)はキャバクラやショーパブで黒服をやってきた人物ですし、彼自身、AKSの前身であるoffice48が立ち上げからずっと「またキャバクラ事務所が・・・」と言われてきたことも隠していません。
また、初期にはオーディションに落ち続けて水商売で食いつないでいたメンバーや、家出少女で劇場の倉庫で寝泊まりしていたようなメンバーもいたと聞きます。
この猥雑さから来るエネルギーが初期AKB48を盛り上げていたのでしょう。

ただ、2011年の大震災での慰問活動、翌12年の東京ドーム公演成功で、「国民的」となったAKB48はこうした過去の様々を面白おかしくメディアにイジられるようになるのですね。
と同時に、それまでとは異なる人材がオーディションを受けるようになったことでAKB48グループは変わらざるをえなくなります。
経営や運営にコンプライアンスを順守することが求められ、徐々に立ち上げの頃にいたグレーゾーンな人材をパージし始めます。
その過程で、名古屋を本拠とするパチンコ機器メーカーの京楽産業が経営を掌握していきました。



もともと京楽は2008年に結成された名古屋市栄のSKE48を子会社(ピタゴラス・プロモーション)に、やはり子会社(京楽エンタテインメント・リテイルズ)のサンシャイン栄に劇場を置いて運営させており、このSKE運営の子会社は11年にAKSと統合、AKSに京楽が直接に出資し、14年にはAKS社長に自社から送り込んだ吉成夏子を据えています。
2015年にAKSが東京国税局の税務調査を受けると、これでKuboとSibaのAKS創設者の2人は完全に排除され、Akimotoに対しては彼の事務所に外部発注する、という形になり、秋元康は以後、AKB48グループの運営には関わらず、乃木坂46(2011年結成)と欅坂46(15年結成)の坂道46グループに注力していくことになりました。その時点で初代劇場支配人も表舞台から排除(14年2月)されていることや、秋葉原に劇場を誘致したドン・キホーテと京楽のAKB48のマーチャンダイズをめぐる裁判(14年3月開始)など含め、AKS立ち上げに関わった面々はフェードアウトしていきます。
また、この2015年までにかけてのAKS内の権力闘争でSiba側についたのが16年6月に除名扱いになる上海SNH48ということになるのでしょう。

なので、2010年代半ばまでを境にAKB48グループ運営は異なるものになっています。
だけど、多くの人はこの変化を知らないし、2012年頃のイメージのまま認識が止まっている人が少なくないように思います。
そして、パチンコ・マネーが入ったことでAKSには広告代理店やメディアなどの「ギョーカイ人」たちが群がり、それまでのコンプライアンスも無視するベンチャー企業の勢いを失って典型的な大企業病に陥り、サブカルチャーとしてのエネルギーも失ったように私には見えます。
2014年段階では乃木坂46に対し優位にあったAKB48ですが、現在は完全に逆転し、2018年総選挙序列1位でSKE48の松井珠理奈が涙ながらに檄を飛ばすほどに坂道46とは差がついてしまっている。



この辺り、東京ドーム公演を成功させた2012年8月に退団した前期AKB48を代表する前田敦子の卒業ソロ曲『夢の河』MVと、翌13年の総選挙で序列1位となりこの4月に退団するまでAKB48を代表した指原莉乃の卒業ソロ曲『私だってアイドル!』MVを比較すると、劇場を主戦場とした前田時代とテレビが主戦場となった指原時代の違い、そして、テレビ時代の終焉を見てとったMVになっているように思えませんか?

そこにさらに重なるのがパチンコ産業の没落。
一時期は「30兆円産業」なんて呼ばれ、AKB48が創設された2005年には市場規模約35兆円とピークを迎えていたパチンコ産業ですが、町を歩いていると閉鎖されたパチンコ店をよく見るようになったことで分かるでしょう。遊戯人口は毎年数十万人規模づつ減少し、2018年の『レジャー白書』では市場規模19兆5400億円とされピーク時の半減間近。京楽自体も16年、17年と2期連続で200億超の赤字決算を出しており、18年11月には京楽お膝元のSKE48の売却が発表されています。

……昔は「不況になるとギャンブルが流行る」なんて言われていたけど、日本の労働者階級にはすでにそんな体力も無いのかもしれませんね。


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リンクしてあるのは、Bebe Rexhaの『Last Hurrah』。