―― 48 Universe (5)――

以前から書いていますが、私はプロレスラーとアイドルを大衆芸能に於ける近似した枠として見ています。
何故ここで急にプロレスの話? と思われるでしょうが、「(地球という)惑星の至宝」と日本国外のプロレス・ファンから呼ばれていた女子プロレスラーの紫雷イオが2018年から世界最大のプロレス団体WWEに移籍し米国に活動の拠点を移しました。
そのIo ShiraiのWWEでの通り名をタイトルにした入場曲『Genius of the Sky』が面白いな、と思ったんですね。何が面白かったって、この入場曲が乃木坂46の入場曲(Overture)っぽいところ。WWEの音楽部門が作っているけど、こういうイメージなんだ、と。
プロレスの入場曲ってヒットチャートにはあまり現れない「大衆音楽」の一つの形態だと私は思うのだけど意外と見落とされているように思う。
そんなWWE Universeで乃木坂っぽい音楽が急に鳴り響いたことにちょっと興味をひかれました。


日本国外の視点からすると「軍隊みたい/軍隊より厳しい」と思われるAKB48グループなどの序列意識ですが、でも、日本人からすると誰もが知る先行モデルがあるからあまり違和感を持たずにそういうものだと理解してしまう。
もちろん、その先行モデルというのは、

一九一三(大正二)年七月に一六名の少女を迎えて発足した宝塚唱歌隊は同年末宝塚少女歌劇養成会と改称、一九年には前年末の認可を受けて宝塚音楽学校(小林一三校長)を設立した。観客の増加にしたがい二一年に、花組・月組を設け、二四年には四〇〇〇人収容の大劇場とうたわれた宝塚大劇場にそなえて雪組を、三三年には翌年の東京宝塚劇場開場をにらんで星組を創設。一九九八年、東京での通年公演を期して、「宙組」がスタート、宝塚歌劇団は五組体制となった。五組は創設順に「花・月・雪・星・宙」とならべて呼ばれ、各組八〇名ほどの演技者をかかえている。
各組に所属しない上級生を、「専科」としてまとめ、公演ごとに特別出演という形で適宜配役する。春日野八千代に代表される功労者、組長・副組長などのいわゆる管理職も経験した面々、歌唱・日舞・洋舞などの一芸に秀でたベテランたちが属している。
AKB48グループは基本16人編成ですが、宝塚歌劇団もその始まりは16人から。劇場と公演の増加に合わせてチームを増やしていったことも共通しています。



以前に日本のアイドル史について書いたことがありますが、宝塚歌劇団は(今現在も継続している)日本で最も歴史と伝統を持つ「アイドル」グループであり、女性男性問わず理想のアイドル運用のロールモデルとして存在し続けているわけです。
なので、わざわざ軍隊に譬える必要もなく、日本社会で育った人ならば自動的に「宝塚」で理解できるでしょう。ただ、宝塚のシステムを知らない人もいるかもしれませんから、もうちょっと説明を続けましょうか。
現在、宝塚音楽学校の課程は予科・本科の二年で、音楽学校卒業者だけが宝塚歌劇団の舞台を踏むことができる。音楽学校の入試倍率は二〇倍前後で、受験資格は中学三年修了から高三修了までなので、合格までくりかえし挑戦する者もいる。
~(中略)~
入学とともにはじまる厳格な生活、毎朝早朝の学校・稽古場の大掃除、上級生による指導などはよく知られている。音楽学校で、
~(中略)~
様々な訓練を経て初舞台を踏む。その後もあくまで出演者は女優ではなく名実ともに「生徒」で、劇団のレッスンもあれば試験もある。稽古場は教室と呼ばれる。初舞台生が研究科一年(略して「研一」)、以降、年を重ねるごとに研二、研三と呼ばれ、「生徒」としての成績評価が下される。在団生徒の年鑑データである『宝塚おとめ』には、専科から各組まで、学年順・成績順に写真とデータが掲載される。つまり宝塚にはスターの序列の他に、厳然とした学校としての序列があり、学年順・成績順は生涯ついてまわるのだ。
~(中略)~
音楽学校卒業と同時に、生徒たちは本名と実年齢を隠して、芸名と舞台上の役柄とを生きる虚構の存在となる。愛称も全員に定められる。
~(中略)~
舞台上の役柄だけではなく、生徒としての〈私〉、タカラジェンヌとしての〈私〉を演じることも、課せられた役割である。
生徒たちは入団後にいずれかの組に配属され、「組子」となる。そこで、上の世代から下の世代へ、舞台人として技芸はもちろんのこと、心得、しきたり、化粧法、ヘアスタイル、衣装の扱い、アクセサリーづくりなど、あらゆることが継承されることになる。
宝塚ではどんな大スターであっても、専属のマネージャー、スタイリストなどをつけない。セルフプロデュースと、相互のたすけあいがもとめられる。鬘やアクセサリーなどは、揃いのもの、支給されたもののほかに、自分でデザインしたもの、手づくりでこしらえたものなどを準備したり、自分で手入れしたりするのが慣例である。ヘアスタイルやメイクもふくめて、それぞれの創意工夫が評価にもつながる。
~(中略)~
各組に組長・副組長がいて、ベテラン上級生が各組八〇名にものぼる組子の管理職として役割を果す。戦前・戦争直後には主演クラスが組長をつとめた時期もあったが、やがてスター・システムと組長・副組長の管理職システムとは切り離された。宝塚は、集団指導によって継承されるカラーや伝統の異なる五つの劇団をかかえているようなものである。しかもそれぞれの舞台で、初舞台生から、十年選手のスターたち、さらには人生の大半を歌劇団で過ごした組長・副組長、専科のベテランたちが、共存し共演する。技術の長短や演技の傾向、成熟度を異にする多彩な演技者による群集劇であり、ショーであり、おのずと舞台は多元的なもの、宝塚の表現とは複数性をおびたものになる。
関東に居るとあまり意識しないけど、関西では宝塚音楽学校の合格発表だけでもニュースになるし、卒業式ともなれば全国ニュースになりますよね。
百年以上の蓄積のある宝塚と十数年のAKBを同じように語るな、と思う人もいるかもしれませんが、AKB48グループのシステムは宝塚歌劇団のものに倣っています。正規採用される前のメンバーを「研究生」と呼ぶことや、厳格な序列意識や、配属されたチームごとの特色を受け容れることや、専属のメイクやスタイリストなどを付けないセルフプロデュースが求められることなど共通しています。「組長・副組長」は「キャプテン・副キャプテン」と呼ばれ、「主演」は「センター」と言い換えられてはいますが。

で、このシステムを頭に入れた上で、AKB48グループ初代総監督の高橋みなみの書いた『リーダー論』より。

AKB48は、「会いにいけるアイドル」をコンセプトに2005年に結成されました。メンバーは定期的に開催されるメンバーオーディション等で選ばれます。
活動拠点は、東京・秋葉原のドン・キホーテ8階にある「AKB48劇場」。
~(中略)~
劇場公演の他に、コンサートやイベント、新曲発売ごとに開催される握手会などで、ファンのみなさんと交流しています。
AKB48の名前の由来ですが、活動拠点のAKihaBaraからAKBを取っています。48は秋元先生の「無機質な商品開発番号のようなイメージ」からだそうです。
というのが「公式」な名前の由来。
実際には『學生天團瘋音樂』でTeam TPキャプテンの陳詩雅に「AKihaBara、でも、どうして48?」と尋ねられた阿部マリアが「3人の経理人がいて~」と話していましたが、「銀座」で意気投合した秋元康(AKimoto)と窪田康志(KuBota)と芝幸太郎(シバを48と表記)の3人の名前を合成したのが「AKB48」であり、AKがアイデア、KBが資金、48が人員を出し、48の所有していた人材派遣会社をベースにして3人の頭文字を充てたのが(後に)運営会社となる「AKS」。
AKB48は、メンバーの数が増えるにつれて、チームの数も増えていきました。現在はチームA、チームK、チームB、チーム4、チーム8に分かれています。それプラス、正規メンバーへの昇格を目指して活動する「研究生」という制度もあります。2015年現在、AKB48だけで10代前半から20代後半まで100人を超えるメンバーが在籍しています。よく、「AKB48は48人組なの?」と聞かれますが、もっとたくさんのメンバーがいるんです。劇場ではチームごとに日替わりで、ほぼ毎日公演が行われています。
私は中学2年生、14歳のときに第1期メンバーオーディションに合格しました。いわゆる「オリメン」(オリジナルメンバー)です。2005年12月8日、AKB48劇場での正真正銘の「初日」のステージにも立たせてもらいました。その時のお客さんの数は、7人でした。
劇場は2004年8月10日に開店したドン・キホーテ秋葉原店8階にあるのですが、当時、ドン・キホーテの秋葉原進出には「オタク」層からの拒否反応が強かったことを覚えています。
ドン・キホーテの客層イメージって今でも「不良」感がありますよね。オタクの街に不良を呼び込むことになる、って嫌がっていて、実際、00年代の秋葉原には「オタク狩り」なんて言葉がありました。
そんなイメージを変えるためにか、ドン・キホーテは当時、モーニング娘。をプロデュースするつんくにも声をかけていたというので、アイドル・オタク層を呼び込もうとしていたのでしょう。そこで立ち上がったばかりのAKB48の劇場が設置されたのです。
しかし、05年12月8日のこけら落とし公演に入ったのは20名の「オリメン」に対し一般客7人。
第1期オーディションのチラシに、書いてあったのは、こんな言葉でした。「秋元康プロデュース、秋葉原48プロジェクト始動!」。
今でこそAKB48はグループアイドルとして認知されていますが、当初のコンセプトは「メンバー同士で競い合うグループだ」と言われていたんです。
こんなにがっつりみんなでチームを組んで活動するとは、1期生の誰もが思ってなかったんじゃないかな。「全員ライバルでしょ?」という気持ちで集まっていたと思う。別に仲良くなる必要もないなって思ったし、仲良くならないとも思っていた。
でも、2005年12月8日の劇場公演初日にいざ幕を開けてみたら、250人入る場内に7人しかお客さんがいない。これから毎日、公演はある。
「劇場を埋めるためには、メンバーみんなで力を合わせなければいけない」という事実に直面して、初めてグループってことを意識したんです。
みんなで話をするようになってから、異様に盛り上がった話題があります。「ここに来る前に、何のオーディション受けた?」と。とあるソロ歌手系のオーディションを1期生が6人ぐらい受けて落ちていたんですよ。「みんな落ちていたんかい!」ときゃっきゃしましたね。
そもそも私は「ホリプロスカウトキャラバン」というオーディションの最終選考で落選して、その帰り道にAKB48メンバー募集のチラシをもらって、オーディションを受けました。まさに、落ちこぼれからのスタートです。
そんな私と似たりよったりで、集まったのはみんな、欠点がある子ばっかりだったんです。ひとりでは売れなかった子たちが寄せ集められてできた、落ちこぼれ集団だった。


秋葉原の片隅で観客7人(実際には招待客と関係者で席はある程度埋めてありました)から始まった落ちこぼれ集団が、劇場のある秋葉原から距離「1830メートル」先にある水道橋の東京ドームの客席を埋める、というのがAKB48に設定されたストーリーライン。
そして、ゴールとなる東京ドームでの公演は2012年8月に果たされます。
ここでAKB48の物語は一度終わりました。

他のアイドル・グループを見ていても同様ですが、先にゴールを決めるとそこで物語が終わってしまいその後は急激にメンバーとファンの熱が冷め始め下降線を描き始めるもの。
例えば、この記事群の冒頭で紹介した「アイドル楽曲大賞2018年」メジャー部門2位に入った『夜明けBrand New Days (farewell and beginning)』を最後の曲に解散したベイビーレイズJAPANは武道館公演を目標にして実行(2014年12月)しましたが、この日を頂点に急激に失速していきました。それを逆手に武道館公演(実際には横浜アリーナ)を実行し次第解散(14年7月)することを前提に活動して熱を作り出した旧BiSのようなグループもあります。
こうして見ると、「アイドル戦国時代」は2010年代前半までで終わっていることが分かりますね。

以後、AKB48グループはいかに体制を維持するかが問われるようになり、2011年2月発売の『桜の木になろう』以来のミリオンセールを続けることが目的化して数字に囚われることになるわけです。



リンクしてあるのは、Sofia Reyesの『R.I.P.』ft. Rita Ora & Anitta。