まずは、Ice Cubeの『It Was A Good Day』。1992年に書かれて、翌93年発表された曲。


PredatorPredator
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「朝、目が覚めた。神に感謝だ。 分かんねえ、けどなんかいい感じ。
犬は吠えてこねえし、スモッグは晴れてる。 ママは豚肉抜きの朝飯を作ってる。」
と始まり、アイス・キューブは故郷サウスセントラル地区を舞台に、黒人の若者にとっての「good day」について歌っていきます。最後に暗転してしまうけど、この曲は彼が少し落ち着いてからのもの。


歴史や政治や社会問題に「目覚めた」当時21歳のアイス・キューブは1990年発表の『AmeriKKKa's Most Wanted』で吠えます。

 
タイトル・トラックとなる「Amerikkka's Most Wanted」では、犯罪者のアンチヒーローがサウス・セントラルを飛び出して郊外を目指す。「ニガの侵略だ。白人を至近距離で狙うぜ」と、白人に対して報復を開始するのだ。強盗の手口は「アメリカ流さ。なんせ俺は『ギャングスタ』だからな」と語る彼だが、白人を襲ったあと、突如として警察に厳しく取り締まられ、逮捕される。
「前にも言ったけど、また言わせてもらうぜ」と、彼は曲をこう締めくくる。「色のついているヤツは、誰でも最重要指名手配犯なのさ」
彼はここで「色(カラー)」という曖昧な言葉を使っている。青〔クリップス〕なのか赤〔ブラッズ〕なのか、黒〔ブラック〕なのか茶〔ラティーノ〕なのかはわからない。これはキューブが地元のストリートを代表するラッパーから、より大きな存在になったことを示していた。
このアイス・キューブの語る「ファンタジー」は、現実のものとなったような気がします。ただし、実行犯はアメリカの黒人やラテン系ではなく、繰り返される白人男性による銃乱射事件という形で。
『ボーイズン・ザ・フッド』の撮影のためにサウス・セントラルに戻ったキューブは、元ギャングのラッパー、クレイグ"カム"ミラーに出会う。クレイグは、コンプトン・モスク♯54でクレイグXになる準備を進めているところだった。
またキューブはその後、ムハンマド・モスク♯27を組織したカリスマ扇動家のカリッド・アブドゥル・ムハンマドとも出会う。坊主頭のムハンマドは、「真実のテロリスト、知のギャングスタ、ブラック・ヒストリーのヒットマン、アーバン・ゲリラ」を自称していた男である。彼のモスクはギャングの和平活動にまで手を広げ、ファラカンのギャングに対する教育・奉仕活動の国内モデルとなった。
キューブはジェリ・カールにした髪の毛を剃り、ネーション・オブ・イスラムのモスクで学んだ。新しいアイデアが次々と浮かんでくる。次のアルバム『Death Certificate』は、自分の最高傑作になるに違いない。アイス・キューブはそう確信していた。
不良少年の反抗心を歌うことをガキ臭いとして「目覚めた」アイス・キューブが故郷ロスアンゼルスに映画の撮影のために戻ってみると、不良少年あがりの若者たちが次々とネイション・オブ・イスラムに入信しています。


画像はWikipediaより

2010年代の今現在においては、前段の「ニガの侵略だ。白人を至近距離で狙うぜ」と併せ、ヨーロッパの「イスラム国(Islamic State)」シンパのことを思い出す。
実際、「イスラム国」の戦闘員やシンパに元ヒップホップ・ミュージシャンが加入していたと報じられることはありましたよね。日本でジハーディ・ジョンの正体ではないかと報道された英国のLyricist Jinnであるとか、ドイツのDeso Doggとか。

ただ、強調しておきたいのは、この問題をもって「だからイスラム教は~」みたいな受け取り方はしないで欲しい、ということ。
「イスラム教」の抱える問題ではなく、イスラームに限らずに宗教極右の問題として見てください。

この1990年当時の時代背景について『ヒップホップ・ジェネレーション』第11章「崩れゆく絆」より
一九八〇年代から二〇世紀が終わるまでの二〇年間、新保守主義(民主・共和両党の「穏健派」)は半世紀前の自由主義へと逆行した。
まずは労働者の安全や環境保護がないがしろにされた。労働組合の規模と影響力は、第二次世界大戦の勃発依頼、最も弱くなり、何千億ドルもの予算は、貧困との戦いから軍事力補強に回された。
それまでは、「社会の」責任が重要視されていたが、八〇年代以降は「個人の」責任が増大したのである。
強者が生存するというだけでなく、強者こそが喜ぶ社会になったのだ。
共和党のケヴィン・フィリップス議員は、レーガンの八〇年代を見事に批評した著書『富と貧困の政治学――共和党政権はアメリカをどう変えたか』(The Politics of the Rich and Poor)の冒頭をこんな言葉で飾っている。
「一九八〇年代は、上流アメリカの大勝利だった――これ見よがしに富を賞賛し、社会の上位三分の一が政治を支配し、資本主義や自由主義、融資を美化する社会だった」
レーガノミックスの信奉者たちは、供給重視型(サプライサイド)経済、つまりトリクルダウン理論を堅持した。富裕層や大企業の税金を削減すれば経済が刺激されるという、胡散臭い理論を支持していたのである。
私は何度でも言いたいのですが、21世紀の日本で突如として英国のマーガレット・サッチャー政権(1979~90年)のサッチャリズムや、米国のロナルド・レーガン政権(1981~89年)のレーガノミクスがまるで成功した経済政策であるかのように語られるようになったことに対し異常な気味の悪さを感じています。
1980年代なんてリアルタイムに体験している人はまだまだ大勢いるはずでしょ。



例えば当時の米国の状況を日本では「従業員を大切にしないアメリカの経営に対して日本では~」「目先の利益しか考えないアメリカの経営者に対して日本の経営者は~」みたいな語られ方をしていたのは80年代に小学生だった私だって覚えています。なのにすっかり歴史は書き換えられて、「○○ノミクスで規制緩和し、為替でドル安誘導し、サプライサイドを増やし、リフレ政策でトリクルダウン」。これ、80年代当時は「ブードゥー教経済学」と呼ばれてバカにされていたはずなのに。
連邦税において、法人が占める割合はわずか一五%と、一九五〇年代の半分にまで落ち込み、年間の税収は二五〇〇億ドル減少した。
~(中略)~
それと同時に、レーガンとブッシュは世界中で冷戦の軍事的冒険主義を支援するため、軍事予算の大幅アップを議会に求め、多額の軍事予算を得た。
政府の赤字をなくし、「健全財政」を約束したはずの政権だったが、赤字は過去最高レヴェルにまで達し、次世代に大きなつけを残したのだった。税負担のほとんどは中流階級と労働者階級の納税者に移った
~(中略)~
貧富の格差は、世界恐慌の前夜以来、最も激しくなった。
一九八三年から一九八九年の間、世帯の上位一%で自己資産が六六%上昇した一方、五世帯中、四世帯で自己資産が減少した。とりわけ黒人家庭は大きな打撃を受けている。
~(中略)~
一九八〇年代は、膨大な富を富裕層に再分配した時代である。
なんというか、三十年以上前の話のはずなのに全然、他人ごとには聞こえないはず。
1950年代から(現在につながる)公民権運動のある程度の成功によって米国における黒人の生活環境は改善しつつありました。途中、ヴェトナム戦争でのドラッグの流入もありましたが、アファーマティブ・アクションの後押しもあり、70年代後半には黒人中産階級が形成されるようになったのですね。けれど80年代以降のネオリベの襲来で最初に没落させられたのがこの黒人中産階級。
アイス・キューブの家庭は父が大学職員で母が病院職員だったから息子を大学に進学させるだけもちこたえたけれど、多くの黒人中産階級は職を失っていきました。
急成長した日本企業の製品が輸入されて製造業は壊滅して工場は次々と閉鎖。工場労働者が失業すれば、周辺の小商店主なども顧客を失います。レーガン政権の大企業優遇策で残された仕事は「マック・ジョブ(McJob)」と呼ばれるファストフード・チェーンのバイト店員のようなものばかり(マック・ジョブという言葉の初出自体1986年です)。
そして一九八七年一〇月一九日、ついに投機バブルが弾け、株式市場が一挙に崩壊した。
アメリカ人の民主主義に対する信頼が、不信感へと変わっていったのも無理はないだろう。
選挙の投票率は急落した。中道派は持ちこたえられなくなり、政治から理想主義が消えてなくなった。
こうして幻滅の下方スパイラルが加速していったのである。
人々は内へと向かい、より大きく団結していくという可能性に見切りをつけたのだ。
こうした経済における閉塞感をレーガン政権のレーガノミクスは株価を高値に維持することで誤魔化してきましたが、1987年10月19日、ついにブラックマンデーと呼ばれる大暴落の日がやって来ました。以後、レーガン政権は「レームダック」と呼ばれて日本でバカにされていたのは当時小学生だった私でもおぼえています。

ただ、このレーガン政権の失策に対し野党民主党への支持が高まったかというとそうでもなかったのですね。
中産階級の崩壊は急激に政治そのものへの不信感を高めてしまうのです。特に黒人においては公民権運動以来積み上げてきたものが崩壊してしまい。
連携を諦め、各自が自分の道を進むことになった結果、範囲を狭めてでも権力を確保することに精力が注ぎ込まれた。
北部の公民権運動の黒人指導者層は、団結して数多くの黒人候補者を当選させようとしたが、若い有権者が多い都市部の選挙区では徐々に支持を失っていった。そこで、一般的な地盤作りを諦め、選挙戦の駆け引きやメディアを使った主張に走るようになる。
選挙ではたいした票数を期待できないとされ、メインストリームのポップ・カルチャーでも目立たない存在だった黒人の若者たちは、見捨てられてしまった。一九八〇年代中盤になると、青少年オーガナイザーと活動家や公民権運動グループの間には、ほとんど何のつながりもなくなっていた。活動家は、まず自分たちの問題に対処しなければならず、公民権運動グループも、とうの昔に若手リーダーの育成を諦めていたのだ。
いまや、レーガンのアメリカは、黒人の若者にとって今までにないほど危険に満ちた国となった。見事に組織化され、資金も潤沢な右派グループの激しい反発に阻まれ、都市部に住む黒人の若者はチャンスを奪われた。
~(中略)~
デトロイト、シカゴ、クリーヴランド、ニューヨークなど北部の都市では、九割方のアフリカ系アメリカ人が、人種的・経済的孤立の深まる中で暮らしていた。ウィリアム・ジュリアス・ウィルソンが、永久に貧困と失業から脱することのできない都市部の黒人コミュニティを「アンダークラス」〔最下層〕と呼ぶと、社会学者はこぞってこの言葉を使い始めた。
~(中略)~
そして全米で、偏見や差別による嫌がらせ事件が急増していた。
これもまた、今現在の私たちにとって遠い話でもないでしょ。野党政治家は支持基盤を拡大することを諦めて既存の支持者を囲い込むことに汲々とし、労働組合は正規労働者を守るだけで精一杯。「今は人権問題よりもまずは経済だ」と公民権運動以来の人権運動家は運動を否定され、青少年支援や貧困者支援などの活動家は個々の支援に追われるばかり。貧困層に対する財政支出を求めようとすれば組織化された右派グループの「無駄だ」と拒否する発言にかき消されてしまう。
黒人たちは分断され孤立化して貧困からの脱出の手がかりを失ってしまったのですね。
このように新たな状況下で、黒人政治家や公民権団体の動きは鈍く、何の効果も上げていないように思えた。
一方、黒人イスラム組織「ネーション・オブ・イスラム」のルイス・ファラカン師は、怒りに燃え、身をもてあましていた黒人の若者たちの想像力を奮い立たせた。演壇に立ったファラカンは、拳を振り上げながらこう叫ぶ。
「私は、このアメリカで果敢にも立ち上がる。軍隊もなければ、銃もない。しかし、私はアメリカ合衆国政府の邪悪さに対し、言論で立ち向かっていくのだ」
右派陣営や資金を潤沢に擁する黒人保守派グループが、公民権という言葉を鵜呑みにし、黒人はもはや虐げられていないと主張している頃、ファラカンはこう繰り返していた。
「人種差別が存在するか否かを議論して、時間を無駄にする必要はない。なぜなら、人種差別は社会に染みわたっており、宗教、政治、教育、科学、経済、そして生活の基本的な機能すべてを蝕んでいるのだ。」
とはいえ、ファラカンはリベラルな考えを信奉しているわけでもなかった。彼は奴隷制度の賠償金を要求し、黒人男性に対しては黒人の血を絶やさぬよう説き、信者には絶えずイライジャ・ムハンマドの教えを繰り返した。
「人種分離こそが、解決策である」
ここで登場したのがネーション・オブ・イスラムの指導者ルイス・ファラカンです。

警察が腐敗し機能しなくなると、ストリートには麻薬と暴力が蔓延する。
ネーション・オブ・イスラムの牧師たちは、そこに介入すると、クラック密売所を閉鎖し、麻薬で壊滅された地域を手中に収めた。彼らが「イスラム流パトロール」と麻薬を取り締まる「ドープバスター」プログラムを威勢よく執り行うと、麻薬と暴力で身動きの取れなかったゲットーの住人たちは彼らの活動に感銘を受けた。
また、「コミュニティ発展の要は、自立心と自己修養である」というファラカンのメッセージは、公民権運動やブラック・パワーに関心のある、比較的裕福な中流階級の若者たちの琴線にも触れた。
ネーション・オブ・イスラム(略称:NOI)の創設は1930年代のデトロイトとされています。アフガニスタン出身と自称するウィリアム・ファード・ムハンマドがアメリカ独自の宗教として創始し、彼が34年に謎の失踪を遂げた後で教団の継承者となったのがイライジャ・ムハンマド。ジョージア州の小作人の子として生まれた人物です。
このイライジャ・ムハンマドに教化され「奴隷の名前だ」として英語名を捨ててムスリム名を名乗り始めたのがモハメド・アリであり、ファミリー・ネームを捨てたのがマルコム・X。
貧しく差別されて誇りを持てなかった米国の黒人たちに対し、黒人こそが選ばれた民である、とNOIは説くのですね。そして白人を「悪魔」と呼ぶ戦闘的なマルコム・Xの活動によって信者を急激に増やすのですが、当のマルコム・Xはカルト化しつつある教団から後に離れ、NOIから次々と送り込まれた暗殺者によって65年に殺されています。
イライジャ・ムハンマドが75年に死去すると、後継者となった息子によって教団は穏健化するのですが、その穏健化路線に反発し、教団を実質的に乗っ取ったのがニューヨーク市ブロンクス出身のルイス・ファラカン。
黒人左派は、ファラカンの出現を、自分たちの弱さを露呈する厄介な徴候と捉え、自由闘争の進展に大いなる脅威を与えるものと見なした。
しかし、これまでに何度となく否定され続け、「ただ『ノー』とさえ言えば良いのだ」と諭されてきた若者たちは、ファラカンの言葉の中に「イエス」が響きわたるのを耳にした。
パブリック・エネミーの創設メンバーとなったビル・ステフニーはこう語る。
「黒人指導者で、『ブラックマンよ、君なら自力で立ち上がれる。堅強な家族だって作れるし、自分のビジネスも始められる。君にならできるんだ』と言ってくれるのは、彼だけだった。彼が唯一、俺たちを認めてくれる指導者だったのさ」
ファラカンはリベラルや保守派、白人層や黒人の主流派に忌み嫌われていた。上院からは満場一致で非難決議を受け、反ユダヤ主義のそしりで追放され、メディアからは社会ののけ者とみなされた。
しかし、こういった非難が奏功し、彼こそが若者に影響を与えることのできる稀有な大人であるというイメージが確固たるものとなった。
見捨てられるか、もしくは無理やり抑えこまれるかという、不当な扱いばかり受けてきた黒人の若者たち。ファラカンは、どの黒人指導者よりも、彼らの危機的状況を理解しているようだった。
貧困に苦しみ、誇りを奪われて、無能な厄介者扱いをされていると感じてきた黒人にとって、ファラカンの語る「黒人スゴイ」は、それまでの人権活動家などの左派の暗いお説教よりも遥かに心地よく響いたのでしょう。
こうした80年代から90年代初頭にかけての黒人宗教極右の伸長は、現在の白人宗教極右にとってのトランプ現象と似ているとして比較する論もありますし、また日本の宗教極右勢力にとっても、とあるカルト教団を仲介とした関係を見ることができます。
・・・最近の日本で、右の人たちがお気に入りにしている台詞「自称リベラルと違って本当のリベラルなら~」ってやつ、どこが発信源なのでしょうね。


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リンクしてあるのは、唾奇 × Sweet Williamの『Made my day』。