日本を除く東アジアにおける「正月」の28日を過ぎたら一気に季節も春めいてきましたね。
中国語圏では春節、朝鮮半島ではソルラル、ベトナムではテトと呼びますが、日本も今さらカレンダーを変えるのは無理でも旧正月の概念くらいは復活させてもいいのにな、なんて私は思います。
中国大陸における、日本のNHKの『紅白歌合戦』と『ゆく年くる年』にあたるCCTVの『春晩』は、期せずして、1960年代生まれの中国人の人生を辿るようなオープニング映像から始まり、「中国のジャニーズ」と日本では紹介される少年アイドルTFBOYSがステージで『美麗中国年』という歌を歌います。
国土の形を動物などに比する地図をこのブログでも幾つか紹介していますが、中国では中国大陸の形をニワトリに模するのですね。それと、今年2017年は丁酉でひのととりの年。五行で火は赤色で表現され、酉は金色。こうして五行思想で考えると何故「中国年」と歌われているのかが分かりますよね。
それと、同じ東アジアの放送局として、NHKと競合するCCTVの演出を比較してみるのも面白いのではないでしょうか。私の感想としては、「やっぱ中国、カネがあるなぁ……」。
他の国ではオリンピックの開幕式でもなきゃできないようなカネのかけ方で、四川省の少数民族のステージとか純粋に面白いし、これから札幌の雪まつりと競合するであろうハルピンの雪まつりとか、CGをバリバリに使った中国バレエや京劇。
・・・「日本スゴイ。中国はダメだ」なんて虚構に耽溺しないでちゃんと危機感を持ったほうがよいと私は思うのですけどね。今年はますます強気で来そうなのだから。
ここからは一つ前の記事に入れようと思ったですが入りきらなかったので、独立させて一つの記事にします。
小林信彦が1986年8月15日の終戦記念日に京都新聞に発表した「現代の奇妙な〈明るさ〉」というエッセイから。
時代観察者の冒険―1977‐1987全エッセイ (新潮文庫)/小林 信彦

¥461
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“人間、小説、映画を含めて、あらゆるものを〈明るい〉〈暗い〉で分けることが、数年前から一般的になった。〈明るい〉は肯定的、〈暗い〉は否定的意味合いをもつ。
この判断には現実的な裏づけがある。
昔とちがって、暗い小説、暗い映画は、大衆に支持されないのである。同様に、暗いスター、タレントも大衆に好まれない。じっさいの性格は暗いとしても、表面的には明るく面白いタレントが好まれる。
この事情は、日常の人間関係においても同じであり、「あいつはクラいから」と敬遠される人間が多くなった。”
80年代日本を代表する流行語が「ネクラ・ネアカ」という言葉。この言葉はタモリ(1945年生まれ)が流行らせたということになっていますが、言葉自体は70年代後半から使われていたようです。
・・・いやあ、思い出すな。小学生の頃とか、好きに本を読んでいるだけで「お前、ホントはネクラなんだろう」とか言われていたこと。
“現在、日本列島をおおっている〈明るさ〉とは、このたぐいのものである。それは、たとえば、夜の公園のようなもので、人工灯によって不自然なほど明るくなってはいるが、昼間のホンモノの明るさとは、まったく、ちがう。
こうした〈明るさ〉の中で育ってきた人たちに、ホンモノの明るさ・暗さが感じとれるだろうか、と疑問に思うことさえある。
なぜ〈明るい〉のかといえば、平和が続き、いちおうは〈豊か〉であり、飽食の時代でもあることに尽きる。
円が世界的に強く、中曽根自民党による〈支配〉は安定した。この〈明るさ〉はニセモノではないか、などといえば、妙なヤツだと思われかねないのである。”
「消費」を満喫する70年代後半から90年代初頭までの日本において、「明るい」というのは何にもまして重要な要素だったのでしょう。けれど、その明るさは昼の光の明るさではなく、蛍光灯で照らされた薄っぺらい人工的な明るさ。
でも、「経済大国日本」の時代にだって様々な暗い影はありました。この時代に私は幼少期を過ごしているけど、子どもにだって受け入れざるをえない「影」は見えていました。だけど、その「影」について語ることは、「明るさ」に対する反逆であり、その明るさに対して少しでも反抗的な態度を見せるかもしれない「ネクラ」な人間はパージされる。
まあ、この80年代世代が支配する現在の日本も似たようなものでしょう。例えば、日本の政治や歴史の影の部分にも言及するような人間は「ネクラなガリベン」だからいじめてやれ、と。
・・・小学生じゃあるまいし、今さらそんなものを恐れる必要もないのに。
“四十一年前の八月十五日を語ることの困難さは、まさに、この奇妙な〈明るさ〉にある。
八月十五日そのものは、四十一年もたってしまえばたいした意味はないので、問題は、八月十五日に終った太平洋戦争(ぼくの記憶の中では今でも大東亜戦争であるが――)をどう考えるかだ。
もはや、世代論では、なにひとつ片づかないのである。同世代だから、戦争について同じ思いを抱いている、などと考えたら、甘い。心に後遺症を残している人間など、同世代(敗戦時が中学一年前後)でも、ごくわずかしかいない。大半は、人工的な〈明るさ〉の中で満足し、八月十五日には「あのいまわしい戦争……」などとつぶやいてはみるものの、それは一瞬のことであり、紋切り型の言葉にすぎないのだ。八月十六日になれば、高校野球のテレビ中継のことしか考えなくなる。”
敗戦後の焼け跡のなかで若者になっていった世代を「焼け跡世代」なんて呼びます。日中戦争から日米戦争へと続く「十五年戦争」のなかで幼少期を過ごし、焼け跡で若者になっていった世代ですね。野坂昭如(1930年生まれ)が「焼け跡派」と自称したところからそう呼ばれます。
で、小林信彦が言うように、“同世代だから、戦争について同じ思いを抱いている、などと考えたら、甘い”というのはその通り。世代でひとまとめに区切ることは出来ず、“大半は、人工的な〈明るさ〉の中で満足し”て生きてきたはず。それどころか、欠乏生活の反動でかえって物質主義に耽溺していった人びとだっていたはずです。糸井重里が1984年に「うれしいね、サッちゃん。」とコピーを書いたような。
“〈戦争を語り伝える〉とうのも、ほとんど至難のわざである。そうした〈わざ〉を持続しておられる方々への尊敬の念は別として、ぼくはといえば、自分の子供さえ説得しかねているありさまだ。「戦争中は……」と口に出しただけで、「クラい話!」という否定的な声がかえってきて、二の句がつげなくなるからである。
〈語り伝えられる側〉の気持もわからないではない。ぼくが子供のころ、〈震災記念日〉というのがあって、当時からみても二十年ほど前の関東大震災をしのんで黙とうをささげたり、記録映画をみせられたりするのが、ひどく、うっとうしかった。こんなものがオレにどういう関係があるのか、と腹立たしくもあった。
――今の子供が〈敗戦記念日〉〈終戦記念日〉について抱く印象は、あのいらだちに近いのではあるまいか。”
私が80年代に横浜の小学生だった時には、関東大震災と横浜大空襲のサヴァイヴァーの証言を聞く機会は学校行事の中に組み込まれていました。私は今でもその頃に聞いた話を覚えているけど、大多数の児童たちにとってそれは「クラい話」でしかなかったのかもしれません。
そして、この焼け跡世代の子供たち世代が1960年代生まれの新人類~バブル世代ということになります。

とは言っても、この『パパは神様じゃない』に登場する次女は70年代に入ってから生まれていますので、これもまた全員というわけではありません。
“四十一年前の八月十五日、ぼくは虫垂炎で寝ていた。
中学一年といえば、もう子供ではないから、八月十五日に〈終戦の詔勅〉を聞かなかったのは、よほど容体が悪かったのだろう。
その夜か、翌日の夜かは忘れたが、ぼくが寝ている頭上の電灯の黒い遮蔽紙(明かりを外にもらさないように電灯のかさのまわりをおおっておくもの)が外された。
今にして思えば、ものごころついた時から、ぼくは、ごくふつうの電灯のあり方を知らなかったのである。太平洋戦争が始まったのが、小三のときで、それ以前から、空襲にそなえて家の中の電灯はつねに黒い紙でおおわれていたのだから。
だから、電灯がいかに明るく、天井の隅々までをいかにはっきりと照らすものかを、この夜、ぼくは生れて初めて知ったのだ。四十ワットか六十ワットの電球がこれほど明るいのか、とぼくは驚いた。この瞬間、ぼくにとっての太平洋戦争は終ったのであるい。
この鮮烈な明るさを記憶しているぼくには、今の日本をおおう〈明るさ〉は不自然すぎる。これを真の明るさと思い込む人々が多い時代はやはり不幸といえるのではあるまいか。”
で、この部分を読んで私は石原慎太郎という人物を思い出したのです。石原は1932年生まれで小林と同じ年の生まれです。
老いた彼が遺言のようにたびたび発している、死ぬ前に「中国と戦争がしたい」というのは、たぶんノスタルジーなんでしょう。自分の少年時代の、暗闇で息を潜め、焼け野原となる日本を再び死ぬ前に見てみたい。それが曲がりなりにも文学者だった石原慎太郎の夢なのでしょうね。
・・・そんな老人のノスタルジーに付き合わされる方はマジで冗談じゃない、なんて私は思うけど、「消費」の欲望をコントロールできない人びとは社会全体を蕩尽したいと飢えているから喜んで焼き尽くしてしまうのかもしれない。昨日、小田嶋隆がトランプを評していたツイートのように。
ここまでが1986年8月15日の新聞エッセイ。これだけだと短いので、もう少し。
ここからは、岩波書店から2016年に発行された『私の戦後民主主義』から。
私の「戦後民主主義」/著者不明

¥価格不明
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“満州事変の翌年、一九三二年に生まれました。
その後、日本は日中戦争、太平洋戦争へと突入していきますが、子どもだった私には、〈いつも戦争中〉でした。
~(中略)~
一九四五年三月一〇日の東京大空襲で、両国にあった私の実家と町は全焼してしまいました。実家は代々続いた和菓子屋で、父親で九代目でした。
~(中略)~
実家を失い、また東京以外に親戚もいなかった私たち一家は、その後、新潟県の新井町(現・妙高市)に疎開しました。同じ新潟県の長岡市は一九四五年八月に大規模な空襲を受けて、市の中心部や市街地の八割が焼失したといわれます。また、広島、長崎の次は新潟に原爆(当時は「新型爆弾」と呼ばれていました)が投下されるなどという噂もありました。”
小林信彦自身は東京大空襲を体験してはいません。彼は学童疎開で埼玉県内に避難中でした。ただ、両国にあった和菓子屋の実家は焼き払われ、和菓子職人の父は家族を連れて新潟県に移住。
しかし、その新潟県でも長岡市が1945年8月1日から2日にかけての夜間に125機からなる米軍の空爆を受け、市長含めた約1500人が死亡。今現在、花火大会で有名な長岡まつりは、この空襲からの復興を願って始まった祭りです。
そして、広島、長崎に続いて原爆投下地点に選ばれたのは新潟市であるという噂は当時の新潟県民も知っていました。「パンプキン」と呼ばれる長崎型原爆のファットマンの模擬弾が新潟県内では長岡、柏崎、鹿瀬町に投下されており、8月10日には新潟市長が新潟市からの退避勧告を出しています。
“ところが、新聞などが伝える戦況は「日本が勝ち続けている」というものばかり。
原爆が投下されたあとでさえ、「なるべく白いものを着て防空壕に入れば助かる」などという情報がまことしやかに伝えられたほどです。政府やマスコミからは、本当の情報は何も伝わってきませんでした。”
広島、長崎に原爆が投下されて、日本政府が真っ先にやったことは何かと言うと「原子爆弾」という言葉を禁止することです。投下されたのは「原爆」ではなく「新型爆弾」という曖昧な言葉で発表されます。広島の被害を隠蔽するのは間に合わなかったけど、長崎の被害は「軽微」と隠蔽。
“こうしてむかえた八月十五日。何か特別な放送がなされるようだ、ということで、父親がラジオを聴きに町会へ出かけて行きました。新潟は山が多く、家のラジオではうまく受信できなかったからです。戻ってきた父親が言うには、ラジオの声はよく聞き取れなかったが、日本は戦争に負け、戦争が終わったらしい、と。
~(中略)~
学校に行けば、それまで「お国のために」と教えていた教師が「私が間違っていた」と子どもたちに対して謝るのかもしれない。そんな期待も抱きましたが、それは見事に裏切られました。
その代り、教師が子どもたちに行ったことといえば、戦時中、大人気だった吉川英治の小説『宮本武蔵』などがあれば、学校に持って来いという指示。それを校庭に穴を掘って集めて、燃やすというのです(そして、実際に燃やしました)。
戦後、やってきた進駐軍にビクビクし、高田の城をゆずりわたし、これまでの嘘に口をつぐみ、ごまかそうとする情けない大人の姿がそこにはありました。”
焼け跡世代は「権威」を信じない、という特徴があると言われます(権威主義じゃなくて)。
前日まで大日本帝国の勝利を語っていた大人たちがあっという間に米軍に媚びを売る姿を見てしまったから。
“戦後、日本は民主主義の国になったといいます。しかし、五年後に朝鮮戦争がはじまっていたという状況に身を置いてきた私には、そのことに対しても懐疑的にならざるをえません。
同じ敗戦国でも、ドイツは自ら戦争責任に向き合い、戦後処理をきちんと遂行してきた。一方、日本は戦争責任を曖昧にし、いまだに「あの戦争は間違っていない」などという言説が聞かれる。戦前も戦後も切れ目なく、曖昧なままに続いているのではないか。
そもそも、戦時中、よく観ていたニュース映画では、東条英機首相の斜め後ろには、商工大臣だった岸信介が必ず映っていました。その独特の要望と話し方は、子ども心にとても印象深く残っています。A級戦犯だったはずの人間が、敗戦から一〇年そこそこで総理大臣になってしまう。日本の「戦後」の虚妄さが如実に表れています。しかも、いまや、その孫が総理大臣となり、いよいよ名実ともに民主主義をつぶしてしまおうというのですから。
戦争は嫌だ――この思いこそ、私がつかみとった唯一の実感です。いま、若い人たちが「戦争反対」と声を上げ始めています。戦争が始まれば、自分たちが戦場に送られるかもしれないという切実な危機感が、彼らを突き動かしているのだと思います。
~(中略)~
戦後、日本は民主主義を根付かせ、育むことに失敗した。だったら、いま、「戦争は嫌だ」という切実で具体的な思いを土台に、民主主義を改めてつくり直す時ではないでしょうか。”
REVOLUTION RADIO/GREEN DAY

¥価格不明
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リンクしてあるのは、Green Dayの『Troubled Times』。
中国語圏では春節、朝鮮半島ではソルラル、ベトナムではテトと呼びますが、日本も今さらカレンダーを変えるのは無理でも旧正月の概念くらいは復活させてもいいのにな、なんて私は思います。
中国大陸における、日本のNHKの『紅白歌合戦』と『ゆく年くる年』にあたるCCTVの『春晩』は、期せずして、1960年代生まれの中国人の人生を辿るようなオープニング映像から始まり、「中国のジャニーズ」と日本では紹介される少年アイドルTFBOYSがステージで『美麗中国年』という歌を歌います。
国土の形を動物などに比する地図をこのブログでも幾つか紹介していますが、中国では中国大陸の形をニワトリに模するのですね。それと、今年2017年は丁酉でひのととりの年。五行で火は赤色で表現され、酉は金色。こうして五行思想で考えると何故「中国年」と歌われているのかが分かりますよね。
それと、同じ東アジアの放送局として、NHKと競合するCCTVの演出を比較してみるのも面白いのではないでしょうか。私の感想としては、「やっぱ中国、カネがあるなぁ……」。
他の国ではオリンピックの開幕式でもなきゃできないようなカネのかけ方で、四川省の少数民族のステージとか純粋に面白いし、これから札幌の雪まつりと競合するであろうハルピンの雪まつりとか、CGをバリバリに使った中国バレエや京劇。
・・・「日本スゴイ。中国はダメだ」なんて虚構に耽溺しないでちゃんと危機感を持ったほうがよいと私は思うのですけどね。今年はますます強気で来そうなのだから。
ここからは一つ前の記事に入れようと思ったですが入りきらなかったので、独立させて一つの記事にします。
小林信彦が1986年8月15日の終戦記念日に京都新聞に発表した「現代の奇妙な〈明るさ〉」というエッセイから。
時代観察者の冒険―1977‐1987全エッセイ (新潮文庫)/小林 信彦

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“人間、小説、映画を含めて、あらゆるものを〈明るい〉〈暗い〉で分けることが、数年前から一般的になった。〈明るい〉は肯定的、〈暗い〉は否定的意味合いをもつ。
この判断には現実的な裏づけがある。
昔とちがって、暗い小説、暗い映画は、大衆に支持されないのである。同様に、暗いスター、タレントも大衆に好まれない。じっさいの性格は暗いとしても、表面的には明るく面白いタレントが好まれる。
この事情は、日常の人間関係においても同じであり、「あいつはクラいから」と敬遠される人間が多くなった。”
80年代日本を代表する流行語が「ネクラ・ネアカ」という言葉。この言葉はタモリ(1945年生まれ)が流行らせたということになっていますが、言葉自体は70年代後半から使われていたようです。
・・・いやあ、思い出すな。小学生の頃とか、好きに本を読んでいるだけで「お前、ホントはネクラなんだろう」とか言われていたこと。
“現在、日本列島をおおっている〈明るさ〉とは、このたぐいのものである。それは、たとえば、夜の公園のようなもので、人工灯によって不自然なほど明るくなってはいるが、昼間のホンモノの明るさとは、まったく、ちがう。
こうした〈明るさ〉の中で育ってきた人たちに、ホンモノの明るさ・暗さが感じとれるだろうか、と疑問に思うことさえある。
なぜ〈明るい〉のかといえば、平和が続き、いちおうは〈豊か〉であり、飽食の時代でもあることに尽きる。
円が世界的に強く、中曽根自民党による〈支配〉は安定した。この〈明るさ〉はニセモノではないか、などといえば、妙なヤツだと思われかねないのである。”
「消費」を満喫する70年代後半から90年代初頭までの日本において、「明るい」というのは何にもまして重要な要素だったのでしょう。けれど、その明るさは昼の光の明るさではなく、蛍光灯で照らされた薄っぺらい人工的な明るさ。
でも、「経済大国日本」の時代にだって様々な暗い影はありました。この時代に私は幼少期を過ごしているけど、子どもにだって受け入れざるをえない「影」は見えていました。だけど、その「影」について語ることは、「明るさ」に対する反逆であり、その明るさに対して少しでも反抗的な態度を見せるかもしれない「ネクラ」な人間はパージされる。
まあ、この80年代世代が支配する現在の日本も似たようなものでしょう。例えば、日本の政治や歴史の影の部分にも言及するような人間は「ネクラなガリベン」だからいじめてやれ、と。
・・・小学生じゃあるまいし、今さらそんなものを恐れる必要もないのに。
“四十一年前の八月十五日を語ることの困難さは、まさに、この奇妙な〈明るさ〉にある。
八月十五日そのものは、四十一年もたってしまえばたいした意味はないので、問題は、八月十五日に終った太平洋戦争(ぼくの記憶の中では今でも大東亜戦争であるが――)をどう考えるかだ。
もはや、世代論では、なにひとつ片づかないのである。同世代だから、戦争について同じ思いを抱いている、などと考えたら、甘い。心に後遺症を残している人間など、同世代(敗戦時が中学一年前後)でも、ごくわずかしかいない。大半は、人工的な〈明るさ〉の中で満足し、八月十五日には「あのいまわしい戦争……」などとつぶやいてはみるものの、それは一瞬のことであり、紋切り型の言葉にすぎないのだ。八月十六日になれば、高校野球のテレビ中継のことしか考えなくなる。”
敗戦後の焼け跡のなかで若者になっていった世代を「焼け跡世代」なんて呼びます。日中戦争から日米戦争へと続く「十五年戦争」のなかで幼少期を過ごし、焼け跡で若者になっていった世代ですね。野坂昭如(1930年生まれ)が「焼け跡派」と自称したところからそう呼ばれます。
で、小林信彦が言うように、“同世代だから、戦争について同じ思いを抱いている、などと考えたら、甘い”というのはその通り。世代でひとまとめに区切ることは出来ず、“大半は、人工的な〈明るさ〉の中で満足し”て生きてきたはず。それどころか、欠乏生活の反動でかえって物質主義に耽溺していった人びとだっていたはずです。糸井重里が1984年に「うれしいね、サッちゃん。」とコピーを書いたような。
“〈戦争を語り伝える〉とうのも、ほとんど至難のわざである。そうした〈わざ〉を持続しておられる方々への尊敬の念は別として、ぼくはといえば、自分の子供さえ説得しかねているありさまだ。「戦争中は……」と口に出しただけで、「クラい話!」という否定的な声がかえってきて、二の句がつげなくなるからである。
〈語り伝えられる側〉の気持もわからないではない。ぼくが子供のころ、〈震災記念日〉というのがあって、当時からみても二十年ほど前の関東大震災をしのんで黙とうをささげたり、記録映画をみせられたりするのが、ひどく、うっとうしかった。こんなものがオレにどういう関係があるのか、と腹立たしくもあった。
――今の子供が〈敗戦記念日〉〈終戦記念日〉について抱く印象は、あのいらだちに近いのではあるまいか。”
私が80年代に横浜の小学生だった時には、関東大震災と横浜大空襲のサヴァイヴァーの証言を聞く機会は学校行事の中に組み込まれていました。私は今でもその頃に聞いた話を覚えているけど、大多数の児童たちにとってそれは「クラい話」でしかなかったのかもしれません。
そして、この焼け跡世代の子供たち世代が1960年代生まれの新人類~バブル世代ということになります。

とは言っても、この『パパは神様じゃない』に登場する次女は70年代に入ってから生まれていますので、これもまた全員というわけではありません。
“四十一年前の八月十五日、ぼくは虫垂炎で寝ていた。
中学一年といえば、もう子供ではないから、八月十五日に〈終戦の詔勅〉を聞かなかったのは、よほど容体が悪かったのだろう。
その夜か、翌日の夜かは忘れたが、ぼくが寝ている頭上の電灯の黒い遮蔽紙(明かりを外にもらさないように電灯のかさのまわりをおおっておくもの)が外された。
今にして思えば、ものごころついた時から、ぼくは、ごくふつうの電灯のあり方を知らなかったのである。太平洋戦争が始まったのが、小三のときで、それ以前から、空襲にそなえて家の中の電灯はつねに黒い紙でおおわれていたのだから。
だから、電灯がいかに明るく、天井の隅々までをいかにはっきりと照らすものかを、この夜、ぼくは生れて初めて知ったのだ。四十ワットか六十ワットの電球がこれほど明るいのか、とぼくは驚いた。この瞬間、ぼくにとっての太平洋戦争は終ったのであるい。
この鮮烈な明るさを記憶しているぼくには、今の日本をおおう〈明るさ〉は不自然すぎる。これを真の明るさと思い込む人々が多い時代はやはり不幸といえるのではあるまいか。”
で、この部分を読んで私は石原慎太郎という人物を思い出したのです。石原は1932年生まれで小林と同じ年の生まれです。
老いた彼が遺言のようにたびたび発している、死ぬ前に「中国と戦争がしたい」というのは、たぶんノスタルジーなんでしょう。自分の少年時代の、暗闇で息を潜め、焼け野原となる日本を再び死ぬ前に見てみたい。それが曲がりなりにも文学者だった石原慎太郎の夢なのでしょうね。
・・・そんな老人のノスタルジーに付き合わされる方はマジで冗談じゃない、なんて私は思うけど、「消費」の欲望をコントロールできない人びとは社会全体を蕩尽したいと飢えているから喜んで焼き尽くしてしまうのかもしれない。昨日、小田嶋隆がトランプを評していたツイートのように。
ここまでが1986年8月15日の新聞エッセイ。これだけだと短いので、もう少し。
ここからは、岩波書店から2016年に発行された『私の戦後民主主義』から。
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“満州事変の翌年、一九三二年に生まれました。
その後、日本は日中戦争、太平洋戦争へと突入していきますが、子どもだった私には、〈いつも戦争中〉でした。
~(中略)~
一九四五年三月一〇日の東京大空襲で、両国にあった私の実家と町は全焼してしまいました。実家は代々続いた和菓子屋で、父親で九代目でした。
~(中略)~
実家を失い、また東京以外に親戚もいなかった私たち一家は、その後、新潟県の新井町(現・妙高市)に疎開しました。同じ新潟県の長岡市は一九四五年八月に大規模な空襲を受けて、市の中心部や市街地の八割が焼失したといわれます。また、広島、長崎の次は新潟に原爆(当時は「新型爆弾」と呼ばれていました)が投下されるなどという噂もありました。”
小林信彦自身は東京大空襲を体験してはいません。彼は学童疎開で埼玉県内に避難中でした。ただ、両国にあった和菓子屋の実家は焼き払われ、和菓子職人の父は家族を連れて新潟県に移住。
しかし、その新潟県でも長岡市が1945年8月1日から2日にかけての夜間に125機からなる米軍の空爆を受け、市長含めた約1500人が死亡。今現在、花火大会で有名な長岡まつりは、この空襲からの復興を願って始まった祭りです。
そして、広島、長崎に続いて原爆投下地点に選ばれたのは新潟市であるという噂は当時の新潟県民も知っていました。「パンプキン」と呼ばれる長崎型原爆のファットマンの模擬弾が新潟県内では長岡、柏崎、鹿瀬町に投下されており、8月10日には新潟市長が新潟市からの退避勧告を出しています。
“ところが、新聞などが伝える戦況は「日本が勝ち続けている」というものばかり。
原爆が投下されたあとでさえ、「なるべく白いものを着て防空壕に入れば助かる」などという情報がまことしやかに伝えられたほどです。政府やマスコミからは、本当の情報は何も伝わってきませんでした。”
広島、長崎に原爆が投下されて、日本政府が真っ先にやったことは何かと言うと「原子爆弾」という言葉を禁止することです。投下されたのは「原爆」ではなく「新型爆弾」という曖昧な言葉で発表されます。広島の被害を隠蔽するのは間に合わなかったけど、長崎の被害は「軽微」と隠蔽。
“こうしてむかえた八月十五日。何か特別な放送がなされるようだ、ということで、父親がラジオを聴きに町会へ出かけて行きました。新潟は山が多く、家のラジオではうまく受信できなかったからです。戻ってきた父親が言うには、ラジオの声はよく聞き取れなかったが、日本は戦争に負け、戦争が終わったらしい、と。
~(中略)~
学校に行けば、それまで「お国のために」と教えていた教師が「私が間違っていた」と子どもたちに対して謝るのかもしれない。そんな期待も抱きましたが、それは見事に裏切られました。
その代り、教師が子どもたちに行ったことといえば、戦時中、大人気だった吉川英治の小説『宮本武蔵』などがあれば、学校に持って来いという指示。それを校庭に穴を掘って集めて、燃やすというのです(そして、実際に燃やしました)。
戦後、やってきた進駐軍にビクビクし、高田の城をゆずりわたし、これまでの嘘に口をつぐみ、ごまかそうとする情けない大人の姿がそこにはありました。”
焼け跡世代は「権威」を信じない、という特徴があると言われます(権威主義じゃなくて)。
前日まで大日本帝国の勝利を語っていた大人たちがあっという間に米軍に媚びを売る姿を見てしまったから。
“戦後、日本は民主主義の国になったといいます。しかし、五年後に朝鮮戦争がはじまっていたという状況に身を置いてきた私には、そのことに対しても懐疑的にならざるをえません。
同じ敗戦国でも、ドイツは自ら戦争責任に向き合い、戦後処理をきちんと遂行してきた。一方、日本は戦争責任を曖昧にし、いまだに「あの戦争は間違っていない」などという言説が聞かれる。戦前も戦後も切れ目なく、曖昧なままに続いているのではないか。
そもそも、戦時中、よく観ていたニュース映画では、東条英機首相の斜め後ろには、商工大臣だった岸信介が必ず映っていました。その独特の要望と話し方は、子ども心にとても印象深く残っています。A級戦犯だったはずの人間が、敗戦から一〇年そこそこで総理大臣になってしまう。日本の「戦後」の虚妄さが如実に表れています。しかも、いまや、その孫が総理大臣となり、いよいよ名実ともに民主主義をつぶしてしまおうというのですから。
戦争は嫌だ――この思いこそ、私がつかみとった唯一の実感です。いま、若い人たちが「戦争反対」と声を上げ始めています。戦争が始まれば、自分たちが戦場に送られるかもしれないという切実な危機感が、彼らを突き動かしているのだと思います。
~(中略)~
戦後、日本は民主主義を根付かせ、育むことに失敗した。だったら、いま、「戦争は嫌だ」という切実で具体的な思いを土台に、民主主義を改めてつくり直す時ではないでしょうか。”
REVOLUTION RADIO/GREEN DAY

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