講談社学術文庫に『権力と支配』と題されたマックス・ヴェーバーの翻訳がありますが、それとは違い、1922年に発表されたヴェーバーの遺稿集『Wirtschaft und Gesellschaft』の巻頭論文 Soziolgische Grundbegriffe を清水幾太郎が翻訳したものの中から短く紹介します。

社会学の根本概念 (岩波文庫)/岩波書店

¥454
Amazon.co.jp

“「権力」とは、或る社会的関係の内部で抵抗を排してまで自己の意志を貫徹するすべての可能性を意味し、この可能性が何に基づくかは問うところではない。
「支配」とは、或る内容の命令を下した場合、特定の人々の服従が得られる可能性を指す。
「規律」とは、或る命令を下した場合、習慣的態度によって、特定の多数者の敏速な自動機械的な服従が得られる可能性を指す。”

「権力」という言葉はありふれたものですよね。大多数の人びとは、この言葉を「定義とは?」みたいに頭を悩ませることなく使っているはずです。
この「権力(power)」という言葉も近代になって生まれた概念を表わす言葉であり、もともとはニュートン以降の物理学の発展に伴って理解されるようになりました。その言葉を流用して、例えば「政治力学」などと使いますよね。
で、英語では、ただ単にパワーですから、その権力というものが“何に基づくかは問うところではない”わけです。自己の意思を通すだけの「力」の存在そのものを指すわけですから。
そして、そのパワーによって、「服従」するものが出た段階でそれは「支配」になります。これも、ぱっと思いつく政治権力による支配に限らず、物理学的な関係性もそれは「支配」と呼ばれることになります。
そして、「命令(order)」に対して自動的に服従が得られた時、その服従は、orderlyであり、「規律(discipline)」になるわけですね。



“第一項 権力の概念は、社会学的には曖昧なものである。人間のいかなる性質も、また、いかなる事情も、状況次第で自分の意志を貫徹するような立場に人間を立たせることがあるから。
それだけに、支配の社会学的概念は、もっと厳密なものであることが必要で、命令に対する服従が得られる可能性ということだけを意味する。”

物理的法則とは違い、人間の関係によって構成される社会において「権力」は常に同一の形をとるわけではありません。
ゆえに、ヴェーバーの社会学では「支配」は、“命令に対する服従”という面に限定して語られます。

“第二項 規律の概念は、批判や抵抗のない大衆的服従の習慣を含む。”

そして、「規律」は、例えば法律のように形式の整ったものばかりに限定されるのではなく、人びとの習慣であるとか、暗黙の了解のようなものも含めて語られます。
・・・一応、言語化しておくならば、その命令への不満をブツブツと呟いているだけで、実際の批判と抵抗には反映されていないならば、それは十分に服従し規律に従っていると言えるわけです。

“支配という事実は、他の人々に対して効果のある命令を下す人間の現実的存在にのみ依存するもので、行政スタッフや団体の存在に必ず依存するとは言えないが、少なくとも、すべてノーマルな状態では、両者の何れかに依存している。
或る団体のメンバー自身が、効力ある秩序によって支配関係に服従している場合、この団体は「支配団体」と呼ばれる。
第一項 家父長は、行政スタッフを持たずに支配を行なう。
ベドウィン族の酋長は、自分の砦の前を通過する隊商に向って人間や財貨などの貢物を要求するが、彼は、一つの団体に結ばれていない、変化する不特定の人間すべてを支配しているわけで、この人々は、特定の状況に陥った時に限り、必要に応じて酋長の行政スタッフとして強制を加える任に当る部下がいるために服従するのである。
理論上、こういう支配は、行政スタッフを全く持たない個人の場合にも考えることは出来る。”



ヴェーバーの「支配の三類型」と呼ばれるものがあります。
その三つとは、「合法的支配」「伝統的支配」「カリスマ的支配」。
一般的に「権力による支配」と聞いた時、近代以降の人間である私たちの大多数は、立法化された成文法に基づき、官僚などの“行政スタッフ”を使って国境(もちろんこの概念も近代のもの)内などの限定された空間で「支配」を行使することをイメージするはずです。
だけど、その近代イメージの支配だけではなく、当然ながら異なる支配の形もあります。砂漠を放浪するベドウィンに「国境」は無い。行政スタッフも無い。しかし族長に通行料を支払うように命令され、部族民の戦士が武器を手にしている瞬間、そこには「支配」が存在し通行料を支払うことは「服従」になるわけです。族長は「家父長」として権力を行使し、部族民のスタッフを使っているけれど、何らかの成文法があるわけじゃない。そこでそれは「伝統的支配」とヴェーバーは呼びます。
そして、カリスマ的支配は、成文法も行政スタッフも無しに、個人、もしくは、何百年も前の教祖の言葉なども含めた「カリスマ」によって他者を服従させるのです。



“第二項 行政スタッフが存在していると、団体は、いつも何らかの程度で支配団体である。
しかし、この概念は相対的である。ノーマルな支配団体は、それだけで、同時に行政団体である。
行政の方法、行政に当る人々の性格、行政の対象となる事柄、支配の効力の範囲、これらのものが団体の特質を決定する。
しかし、最初の二つの事実は、支配の正当性の根拠の種類によって非常に強く規定される。”

パワーが垂直的に動く時、それはもう「支配」なんですね。
権力と言い、行政団体と言うと、近代以降のぼんやりとしたイメージで社会を捉えている私たちは「政府」ばかりをイメージしてしまうかもしれませんが。
そして、ヴェーバーは、“行政の方法、行政に当る人々の性格”は「権力」の「正統性(legitimacy)」に非常に強く規定されるとします。
この「正統性」の問題と「支配」の問題、例えば、憲法をめぐる議論の際などに意識してみてはいかがでしょうか。そうすると見えてくるものもあるのではないでしょうか。




リンクしてあるのは、Jidennaの「Long Live the Chief」。