ロンドンへの英語教育研究のための留学に失敗した夏目漱石は、熊本の五高には戻らず東京千駄木に居を構えます。
東京で講師の職を得るも、教育者としての自分には自信を失い、自宅に籠って文筆家として成功することを求めるようになり、1905年に『吾輩は猫である』を発表すると好評を博して作家への道を歩き始めました。

「吾輩の主人は滅多に吾輩と顔を合せる事がない。
職業は教師だそうだ。学校から帰ると終日書斎に這入ったぎりほとんど出て来る事がない。
家のものは大変な勉強家だと思っている。当人も勉強家であるかのごとく見せている。
しかし実際はうちのものがいうような勤勉家ではない。
吾輩は時々忍び足に彼の書斎を覗いて見るが、彼はよく昼寝をしている事がある。時々読みかけてある本の上に涎をたらしている。
彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帯びて弾力のない不活溌な徴候をあらわしている。
その癖に大飯を食う。大飯を食った後あとでタカジヤスターゼを飲む。
飲んだ後で書物をひろげる。二三ページ読むと眠くなる。涎を本の上へ垂らす。
これが彼の毎夜繰り返す日課である。
吾輩は猫ながら時々考える事がある。教師というものは実に楽なものだ。人間と生れたら教師となるに限る。こんなに寝ていて勤まるものなら猫にでも出来ぬ事はないと。
それでも主人に云わせると教師ほどつらいものはないそうで彼は友達が来る度たびに何とかかんとか不平を鳴らしている。」



という「吾輩の主人」はロンドンから失意の帰国と教育者としての自信を失った夏目漱石の自画像なのでしょう。


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“少し学究めきますが、日本とか現代とかいう特別な形容詞に束縛されない一般の開化から出立してその性質を調べる必要があると考えます。お互いに開化という言葉を使っておって、日に何遍も繰返しておるけれども、はたして開化とはどんなものだと煎じつめて聞き糺されてみると、いままで互いに了解し得たとばかり考えていた言葉の意味が存外喰い違っていたりあるいはもってのほかに漠然と曖昧であったりするのはよくあることだから私はまず開化の定義からきめてかかりたいのです。”

ここで私が「近代」をどう使っているかを改めて説明しておくと、政治的にはフランス革命を起点にし、経済的には産業革命、日本史としては明治維新以降を対象としています。終点は第一次世界大戦序盤てところかな。
で、当然、歴史は昨日と今日で突然代わるものではなく、例えば、明治維新の前段階の江戸幕政時代にだって近代を導入するための様々がありました。ヨーロッパ史でもルネサンスや「Age of discovery(日本語では「大航海時代」)」を含んで考えるやり方もありますから、けっこう曖昧なものです。
それと、漱石がここで「開化」と言っているものは、私は「近代化」と表記してきています。

“もっとも定義を下すについてはよほど気をつけないととんでもないことになる。
これをむずかしく言いますと、定義を下せばその定義のために定義を下されたものがピタリと糊細工のように強張ってしまう。複雑な特性を簡単にまとめる学者の手際と脳力とには敬服しながらも一方においてその迂闊を惜しまなければならないようなことが彼らの下した定義を見るとよくある。
その弊所をごく分かりやすく一口にお話すれば生きたものを故(わざ)と四角四面の棺の中へ入れてことさらに融通がきかないようにするからである。
もっとも幾何学などで中心から円周に到る距離がことごとく等しいものを円というような定義はあれで差支ない。定義の便宜があって弊害のない結構なものですが、これは実世界に存在する円いものを説明するというよりむしろ理想的に頭の中にある円というものをかく約束上とりきめたまでであるから古往今来変わりっこないのでどこまでもこの定義一点張りで押して行かれるのです。
その他四角だろうが三角だろうが幾何学的に存在しておる限りはそれぞれの定義でいったんまとめたらけっして動かす必要もないかもしれないが、不幸にして現実世の中にある円とか四角とか三角というもので過去現在未来を通じて動かないものははなはだ少ない。
ことにそれ自身に活動力を具えて生存するものには変化消長がどこまでもつけまとっておる。今日の四角は明日の三角にならないとも限らないし、明日の三角がまたいつ円く崩れ出さないともいえない。”

幾何学として円と、現実にある丸い物は違います。言うまでもないことですね。ここで「○」と打ち込んでみたところで、この「○」だって拡大してみればギザギザのドットの集まりでしかないのですから。

“ちょうど汽車がゴーッと馳けて来る、その運動の一瞬間すなわち運動の性質のもっとも現われ悪(にく)い刹那の光景を写真にとって、これが汽車だ汽車だといってあたかも汽車のすべてを一枚の裏に写し得たごとく吹聴すると一般である。
なるほどどこから見ても汽車に違いありますまい。
けれども汽車に見逃してはならない運動というものがこの写真のうちには出ていないのだから実際の汽車とはとうてい比較のできないくらい懸絶しているといわなければなりますまい。
ご存じの琥珀というものがありましょう。琥珀の中に時々蠅が入ったのがある。
透かして見ると蠅に違いありませんが、要するに動きのとれない蠅であります。蠅でないとは言えぬでしょうが活きた蠅とはいえますまい。
学者の下す定義にはこの写真の汽車や琥珀の中の蠅に似て鮮かに見えるが死んでいると評しなければならないものがある。それで注意を要するというのであります。”


画像はWikipediaより

“つまり変化をするものを捉えて変化を許さぬかのごとくピタリと定義を下す。
巡査というものは白い服を着てサーベルを下げているものだなどとてんからきめられた日には巡査もやりきれないでしょう。家へ帰って浴衣も着換えるわけに行かなくなる。この暑いのに剣ばかり下げていなければすまないのは可哀想だ。
騎兵とは馬に乗るものである。これもごもっともには違いないが、いくら騎兵だって年が年中馬に乗りつづけに乗っているわけにも行かないじゃありませんか。少しは下りたいでさア。”

もともと学問のなかで「定義」を決めるというのは、互いに議論するための叩き台となるべきものでした。黒板に描いた「○」が歪んでいようともそれが真円であると仮定して。
ところが、その「定義」が「大衆化」すると、目に見えるものだけで分かったようなフリをし始めます。
写真に写った汽車を見ただけで汽車の全てが分かったような気になるかのように。
もちろん、そうじゃないですよね。汽車の最も重要な要素は多量の物資や旅客を運搬する「運動」にあるのであって、静止した写真を見ただけでは伝わりません。
この「定義」論争の大衆化は、より低きに流れます。今現在でもインターネット上で行なわれる論争ごっこでは毎日のように見かけます。
例えば、「巡査は白い制服を着てサーベルを下げている」と夏目漱石が言えば、「黒い制服で拳銃を下げている巡査は、巡査じゃないのか!」なんて言ってみたり、「騎兵は馬に乗るものである」と言えば、現在の騎兵師団はヘリコプターや機動装甲車で戦場に乗り込みますから「騎兵でも馬に乗ってないじゃないか」と言って、議論を混乱させる手法として使われています。


画像はWikipediaより。米国の第一騎兵師団のデモンストレーション。

“つまり変化をするものを捉えて変化を許さぬかのごとくピタリと定義を下す”ことで議論を混乱させて喜ぶような連中がいるから上手いことインターネット上の議論はいかないものです。そしてそうした手法は明治時代でも同じようにあったのでしょう。

・・・しかし、まあ、そういう手法を見かけるたびに私は「小学生かよ」とか思うのですが、やってる当事者たちは恥かしくならないのかな。

“こう例を挙げれば際限がないから好い加減に切り上げます。
じつは開化の定義を下すお約束をしてしゃべっていたところがいつの間にか開化はそっち退けになってむずかしい定義論に迷い込んではなはだ恐縮です。
がこのくらい注意をした上でさて開化とは何者だとまとめてみたら幾分か学者の陥りやすい弊害を避け得るし、またその便宜をも受けることができるだろうと思うのです。”

なので、漱石は、まず定義は変化するものだという前提を確認してもらってから本題に入っていきます。


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リンクしてあるのは、Lindsey Stirlingの「Roundtable Rival」。