寺田寅彦は1878年生まれの物理学者。
東京出身ですが、高等学校は熊本の第五高等学校に進学しました。この熊本の五高に、ラフカディオ・ハーンの後任の英語教師として赴任してきていたのが夏目漱石で当時29歳。
この出会いから、夏目を中心にした紫溟吟社という俳句の同人サークルを寺田は結成しています。夏目が英国留学に出る二年前のことです。
そうした体験は、東京帝大を物理学で卒業して学者となった後も、文筆活動は続けていて、理系と文系の架け橋のような存在として今でも知られています。
そんな寺田の随筆から。

柿の種 (岩波文庫)/寺田 寅彦

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“イタリアとエチオピアとの葛藤が永びいて、ほとんど毎日のようにムッソリニの顔が新聞に出る。
毎日見ているとその顔がだんだんにナポレオンの顔に似てくる。実際どこかよく似ているのである。
伊軍の飛行機を輸送船に積み込むというので翼を取りはずした機体を埠頭に並べてある光景の写真が新聞に出ていた。
その機体の形が蝗そっくりである。見れば見るほどよく似てくる。
黙示録のいなごが現世に現われたのである。
形の似たものにはやはり性能にもどこか似たところがあるようである。”

世界恐慌がイタリアにも波及し、世情は不安定になると、ファシスト党のベニート・ムッソリーニは、「ローマ帝国再興」を旗印にして、地中海世界の征服を打ち上げます。
不況で意気消沈するイタリア人に向けて、戦争による昂揚感を提供するのです。相手は、同じく古代史の時代から続くエチオピア帝国。



1935年10月、ムッソリーニはエチオピアへの進撃を命令。宣戦布告なしに10万人以上のイタリア軍がエチオピアに侵入します。



エチオピア皇帝は、35年1月の時点で国際聯盟にイタリア軍による侵略の危機を提訴していました。国連はなかなかこのエチオピアの訴えに応えようとはしません。イタリア軍のエチオピアへの侵入が開始されてからようやく11月に経済制裁を決定するも、イタリアによるエチオピア侵攻を止めるには至りません。
というのも、国連は、1931年の大日本帝国による満洲事変への対応の失敗と、34年のドイツにおけるヒトラーの政権の完全掌握によって身動きがとれなくなっていたのですね。

こうした各国政府の動きの遅さに、例えば米国では黒人市民を中心にエチオピアへの支援や義勇兵の編成に動き、日本では、日本共産党らの左翼だけでなく、日本と同じ万世一系の皇帝を奉じるエチオピア帝国を守れと頭山満らの玄洋社系の右翼の両翼がエチオピア支援を訴えますが、最終的には満洲問題とエチオピア問題を取引するようにして大日本帝国政府はムッソリーニの侵略を認めてしまいます。
そしてエチオピアは36年にイタリアに敗北。イタリア空軍は毒ガスも含む無差別爆撃をエチオピア各地で敢行。首都は陥落し皇帝は英国へと亡命。さらに、エチオピアと満洲の取引は、1937年の日独伊防共協定へとつながっていったのです。
・・・この辺りを知っておけば、「侵略ではない。日本は欧米列強の植民地主義に抵抗したのだ!」なんて主張は言えないはずです。

『ヨハネの黙示録』に登場する蝗を率いる破壊の悪魔アバドンは、その後も1937年のドイツ軍による「ゲルニカ爆撃」、38年の日本軍の「重慶爆撃」に現われ、そして1945年に日本を焼き払った・・・なんて言えるかもしれませんね。

“エチオピア事件でほとんど毎日毎夕の新聞に伊国首相や、エ国皇帝、それから国際聯盟の英仏代表イーデン、ラバールの肖像が出る。
日本の内閣に何か重大な事件でもあると岡田首相や陸相海相の顔が毎日のように新聞の紙面の相当な面積を占めて出現する。
ちょっとわれわれには了解のできにくい現象である。
新聞の読者というものは恐ろしく健忘症なものであると仮定するか、あるいはまた新聞購読者の大多数は、ほんの気まぐれに、十日に一度二十日に一度ぐらいその日の新聞を買って見るだけである、ということでも前提に置いて考えてみなければ全くわけのわからない「煩雑」であり「浪費」である。
もっともこうしないと「その日その日主義」とも訳されるジャーナリズムの「気分」が出ないのかもしれない。”

journalという単語が意味するのは「日誌」。であれば、ジャーナリズムはその日その日の日誌でしかなく、知識を蓄積してより高みに向かうものでもないのかもしれません。

“秋晴れの午後ニ階の病床で読書をしていたら、突然北側の中敷窓から何かが飛び込んで来て、何かにぶつかってぱたりと落ちる音がした。
郵便物でも外から投げ込んだような音であったが、ニ階の窓に下から郵便をほうり込む人もいないわけだから小鳥でも飛び込んだかしらと思ったが、からだの痛みで起き上がるのが困難だから確かめもせずにやがて忘れてしまっていた。
しばらくしてから娘が二階へ上がって来て「オヤ、これどうしたの」と言いながら縁側から拾い上げて持って来たのを見ると一羽の鶯の死骸である。
かわいい小さなからだを筒形に強直させて死んでいる。北窓から飛び込んで南側の庭へ抜けるつもりでガラス障子にくちばしを突き当てて脳震盪を起こして即死したのである。
「まだ暖かいわ」と言いながら愛撫していたがどうにもならなかった。”

寺田寅彦は骨腫瘍を患っていました。彼が57歳で亡くなるのはこの1935年の12月のこと。

“鳥の先祖の時代にはガラスというものはこの世界になかった。
ガラス戸というものができてから今日までの年月は鳥に「ガラス教育」を施すにはあまりに短かった。
人間の行路にもやはりこの「ガラス戸」のようなものがある。
失敗する人はみんな眼の前の「ガラス」を見そこなって鼻柱を折る人である。
三原山火口へ投身する人の大部分がそうである。またナポレオンもウィルヘルム第二世もそうであった。
この「ガラス」の見えない人たちの独裁下に踊る国家はあぶなくて見ていられない。”


Splende/Annalisa

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リンクしてあるのは、Annalisaの「Una Finestra tra le Stelle」。