東京とワシントンD.C.の二つの場所での証言を並列させて書いていますので、日付がごちゃごちゃになっている人もいるかもしれません。一度、確認しておきましょうか。

東京とワシントンD.C.の時差は14時間。
真珠湾攻撃は日本時間では12月8日(月)午前3時頃に開始。ですから、米国東部時間では12月7日(日)午後1時頃ということになります。現地ハワイは7日朝8時頃。

祖父東郷茂徳の生涯/文藝春秋

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“4日(木)午後2時、連絡会議。対米通告内容を決定。
杉山参謀総長は、これを最終的なものとせず、若干の余裕があるようにやって欲しい、と主張するが、茂徳は、帝国政府から米政府には、通告を一回するだけで、その後に再び言う余裕はない、と反対した。
――斯くて日米国交を調整し合衆国政府と相携えて太平洋の平和を維持確立せんとする帝国政府の希望は遂に失はれたり。仍って帝国政府は茲に合衆国政府の態度に鑑み今後交渉を継続するも妥結に達するを得ずと認むるの外なき旨を合衆国政府に通告するを遺憾とするものなり。”

コーデル・ハル国務長官が「無礼極まるものであった」と記した「十ヵ条の平和的解決案(いわゆるハル・ノート)」とルーズヴェルト大統領親書への回答はこうして出されました。

“「同通告が宣戦布告と仝一のものなりしことは明白なりしものなり」(東京裁判関連の準備文書より)というのが茂徳の立場であった。”

東郷重徳外相は、この返答文に“宣戦布告”と同じとの意味を込めていると言うのですね。
では受け取ったハルの側は、

ハル回顧録 (中公文庫BIBLIO20世紀)/中央公論新社

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“この通告は宣戦の布告はしていなかった。また外交関係を断絶するともいってなかった。日本はこういう予備行為なしに攻撃して来たのである。”

と宣戦布告とは認識していなかったと言います。
この齟齬がどこから生まれたのかというと、

『祖父東郷茂徳の生涯』に戻り、

“この案文で充分かどうかについて海軍側から声が挙がり、岡敬純軍務局長は「帝国は必要と認める行動の自由を留保す」と、日露開戦の前に日本がロシアに送った交渉打切通告の先例に倣った文を、最後につけ加える案を示すが、茂徳は、それを必要なしと判断した
~(中略)~
5日(金)対米覚書、閣議で承認。
午後4時15分、田辺盛武参謀次長(塚田攻の後任)と伊藤軍令部次長、外相公邸を訪問。
伊藤は、「開戦通告の時間を三十分繰り下げてもらいたい」と申し入れる。
「時間を変更しても攻撃開始まで充分に余裕はあるのか」と問いただす茂徳に、伊藤は確約を与える。”

用意されていた米国への回答書は、「対米覚書」と「宣戦布告文」の二通があったみたいなんですね。

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“加瀬は日米開戦前年の40年秋から終戦まで外相秘書官、北米担当課長などとして、松岡洋右、東郷茂徳、重光葵の三外相に仕え、開戦から終戦までをほぼ一貫して政府中枢から見届けた。氏は98年、月刊誌「This is 読売」三月号のスクープ記事の中で、問題の「対米覚書」とは別に作成され、ついに使われることなく終わった"幻の宣戦布告文"についても「自分が書いたもの」であると認め、注目された。”



加瀬俊一は1903年の千葉出身。1925年に外務省に入省し、その後、アマースト大学に留学しています。・・・本当に、この大学は日米関係を考える時に必ず出てくる名前ですね。
1941年当時は外相秘書官兼政務局6課(北米担当)課長の職にあります。写真は1945年の降伏文書調印時のものですが、英語畑の専門家です。

“――出し遅れた「対米覚書」が開戦を明言していなかったのに比べ、宣戦布告文は「戦争状態を通告する」と明文化しているため、「宣戦布告文を方を先に打電していれば、大使館にも事態の深刻さが正確に伝わり、手交遅延の大失態が避けられたのでは」という見方が学者の間に出ているが、どう思うか。
「天皇陛下(昭和天皇)が『開戦通告はきちんと国際法の手続きを踏んでほしい』と言っておられたし、東郷(茂徳)も大変用心深い人で外務省としてあらゆる場面に備え、いわば武士のたしなみとしてあの宣戦布告文も準備しておくよう私に指示したわけです。(宣戦布告文には)私のサインが記されているから私の作ったものでしょう。ただし、作成したことを私自身が最近まで忘れていたぐらいで、あんなものを作ったところでとても使える状況じゃなかったのです」
――どういうことか?
「軍部が考えていたのは奇襲だったからです。海軍の人たちは、戦争は勝つようにするものだ、自分たちの本当の魂胆(真珠湾攻撃)がわからなきゃいいと言っていました。海軍としてみれば日本の全存在をかけた戦いでしたから、勝たなければならないのだ、と。だから、『覚書』の最後に『交渉の妥結は不可能』の文言を入れることすら、海軍は(開戦通告を連想させるとして、初めは)絶対反対を主張したぐらいです。宣戦布告文など出せる空気ではなかったのです」”

ここにも齟齬があります。海軍側の主張と、外務省側の主張が異なります。海軍は「対米覚書」で無通告の開戦に不安を抱いて東郷外相に確認していますね。一方、加瀬秘書官は海軍の要請で開戦を臭わせる文章を削るよう主張したと言います。

まあ、どちらにせよ、「対米覚書」が米国に届いたのは現地時間の12月6日夜。夜の間に駐米大使館宛ての暗号を傍受した米国側がハル国務長官に解読を終えた外交電報を渡したのが7日午前中。東郷の予定では真珠湾攻撃直前の20分前に野村と来栖の両大使が「対米覚書」を提出して日米開戦というはずでした。
これが攻撃後に提出されてしまうのは誰でも知る歴史のとおりなのですが、もし、間に合っていたとしても、その「対米覚書」には開戦を報せる文言は無かったということになり、「騙し討ち」の誹りは避けられなかったのでしょうね。



東京では海軍と外務省の間に齟齬がありましたが、ワシントンの駐米大使館の様子は、

“「当時、東京の方では、私など開戦前の十日間ほどはほとんど寝ないで緊張してやっていた。
まさか、ワシントンが『めしの時間だ、中華料理を食べに行こう』とか『今晩は遅いからもう帰ろう』とかのんびりしたムードであろうとは夢にも思わなかった。
ワシントンにはとにかく優秀な人を集めたんです。ところが、その人たちが互いに張り合っていて、朝なんかあいさつも交わさないくらいだったと。野村吉三郎大使(海軍大将)も外務省の出身者でなかったから、部下を把握し切れてなかったのかもしれない。日本の不運でした」
~(中略)~
「ハル・ノートは『最後通牒』という言葉こそ使っていないが、東郷外相ばかりでなく政府・軍部みなにショックを与えました。米側は、日本にそう思わせることを十分期待して書いたのでしょう。
それに対する『覚書』を出先の大使館が読んで、『何のことかわからない』というのは、我々から見ると実にふがいないと思わざるをえない。英語で言うと『ビジネス・アズ・ユージュアル』、まんねりでやっていたんでしょう。電信課員も家に帰されていたが、当直が必ず泊まっているいるべきで、ことに危機的な時は当直を増やすぐらいにすべきでした」”

皮肉なことに、日本の駐米大使館は「対米覚書」の暗号電報の受信解読が遅れましたが、米国側は夜のうちに傍受解析して、午前中のうちにハル国務長官に届けているんですよね。けれども、それを読んだハルらの米国側当局者たちはこれが宣戦布告だとは認識していない・・・ということは、やはり時間通りに提出したとしてもあまり意味は無かったように思えます。

“「あの時は国際法学者の横田喜三郎・東大教授(戦後、最高裁長官)にも相談しました。横田さんは『対米覚書』を読み、ハル・ノートも踏まえて、法学者の立場でこれで十分だと言ったのです。それに、奇襲の成功を図る海軍当局と東郷さんとの大変な激論の末のことですから、あれ以上(宣戦布告の意図を明文化すること)は無理でした」”

と、加瀬は「対米覚書」でも宣戦布告の形式を持っている、とは言いますが。


War Eternal/Arch Enemy

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リンクしてあるのは、ARCH ENEMYの「War Eternal」。
・・・アーチ・エネミーはヴォーカルのアンジェラ・ゴソウが脱退して、新たにジ・アゴニストからヴォーカルを招いたのか。なんかけっこうイメージが変わったな。