ナチスが戦争を拡大し次々と各地に侵攻していったのにも大義名分はありました。
チェコスロヴァキアのズデーテン地方で、ポーランドの回廊地帯で、フランスのアルザス=ロレーヌ地方で、ソ連の支配するバルト諸国で同胞のドイツ系住民が迫害されている!彼らが援けを求めているのだ!取り残されたドイツ人の命を守るために軍を送り込め!
セルビアに支配されているクロアチア人をユーゴスラビアから解放せよ!
ソ連からブルガリアを!カフカスを!英国からギリシアを!フランスから北アフリカを!
第一次と第二次の両世界大戦でドイツ軍人や諜報員がいかに世界各国の独立運動に力を与えたことか。そうした諜報員の記録などを読めばどれだけの苦難の旅を乗り越えていったのかがよく分かります。

敗れたとはいえ、ナチス・ドイツのお蔭で、第二次大戦後には大英帝国やフランス植民地帝国によって植民地化されていたアラブやアフリカ諸国も独立することができました。
ヒトラーは独立と平和の種を蒔き、ナチスとともにドイツ人たちは、金融資本とそれによって支えられた帝国主義と闘ったのです。



・・・もちろん皮肉ですよ。書いとかないと本気にする人も少なくないようなので。


長くオーストリア帝国の支配を受け、第一次と第二次の両大戦でドイツに味方して敗戦国となった経験を持つハンガリーやチェコスロヴァキアはドイツ人に対して警戒感を隠さずにいましたが、今度はブルガリアの話です。

ジプシーの歴史 東欧・ロシアのロマ民族/株式会社共同通信社

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“地方当局は、「宗教と姓名を民族帰属の基準としない」とする通達を司法省その他の政府機関から受けた。
交婚は両配偶者の民族帰属を変化させるものではないが、このような夫婦の子どもは任意にフルガリア人として登録できるとされた。非ブルガリア系市民の姓名変更は、地元の人民議会に文書で申請するだけでできることになった。こうした努力は、暴力や行政的強制に訴えることなく、大規模かつ系統的な大衆的説得をつうじて進められなければならなかった。
この「大衆的説得の大規模なキャンペーン」は、トルコ人として登録されているタタールやジプシー、ブルガリア人ムスリム(ポマク)を対象とした。”

ブルガリアがオスマン帝国の支配下に入ったのは1390年代ですから14世紀の終わり頃。独立を果たすのは20世紀初めの1909年。
オスマン帝国は同化を強制しないとはいえ、これだけの時間があれば少なくない人びとがトルコ人化するでしょうし、イスラームを信仰する人びとも増えるでしょう。
独立を果たしたブルガリアは国内からトルコの影響を排除しつつブルガリア「国民」を作らなければならなかったのです。「国」を取り巻く状況は14世紀からいきなり20世紀に飛んだのですから。
ここで“大衆的説得”されたのは、イスラーム文化圏風の名前からブルガリア人らしい名前に改名させようというキャンペーンです。決して“強制”じゃないですよ。もちろん任意だし、あくまでも説得ですよ。大衆はそれを許しませんけど。



“加えて、ポマクとジプシーが密集したトルコ人住民のいる村や町へ移住することは禁止され、ジプシーやタタール、ブルガリア人ムスリムの子どものトルコ語教育も禁止された。こうした生徒が多数を占める学校ではトルコ人教師は教えてはならず、彼らをトルコ人の子どもと一緒に勉強させてはならない、とされた。
軍および労働関係の当局者は、「共産主義と愛国主義」の「国民的自覚・・・を強化する」ために、とくにトルコ人への帰属意識をもったブルガリア人ムスリムやジプシー、タタールの青年たちに「正しい教育を施す」責任を負った。
ブルガリア正教会と外務省の担当者は、トルコ人ムスリムの聖職者が、とくに宗教的行事をつうじてトルコ人への帰属意識を強化する宣伝をしたり、ジプシーおよびタタールの密集する村やブルガリア人ムスリムのあいだでトルコ人聖職者が任命されるのを許さないよう注意しなければならなかった。
ブルガリア科学アカデミーは、「ブルガリアに住むトルコ人やタタール、ジプシーの民族的起源と民族的特殊性」を研究するために、専門家の調査団を派遣すべきこととされた。彼らは、トルコ人抑圧者の同化政策の結果について、またイスラムへの集団的、個人的改宗について、「歴史的真実のさらなる発見に努める」とされた。”

オスマン帝国時代に行なわれたらしい“同化政策”で、ブルガリア国民になるはずだったブルガリア人の一部やタタール人やロマはムスリムになってしまったので、「正しい教育」「正しい宗教」を授けることで彼らを立派な「国民」にし、「国民」としての自覚を持ってもらうためにはトルコ人と付き合うことも禁止してしまったほうが良いだろう、と。
そして、そうした状況に耐えられないトルコ人やトルコに帰属意識を持っている者が国を出て、トルコに向けて出発するのは止めないよ、とも。



“こうした政策は、現実には、強制的な統合とブルガリア化をつうじたロマのアイデンティティの破壊をもたらした。
しかもそれは、「民族的帰属や起源、信条にもとづく特権の付与ないし権利の制限」を禁じた1971年5月18日の新憲法とも抵触した。実際、政府当局は、新憲法の施行から数年もたたないうちに「統一的な社会主義ブルガリア国民」について語りはじめていた。
それはある新聞によれば、「ほぼ完全な単一民族で、民族的に完全な均質性に向かう」とされた。
さらに指導者トドル・ジフコフは、1979年、ブルガリア国民は「民族解決」を解決した。ブルガリアにはもはや民族に関連した国内問題は存在しないと述べた。
彼の長期目標は、ブルガリアを「バルカンの日本」とすることだった。”



トドル・ジフコフは第二次大戦中には、枢軸国に加わったブルガリア王国内で、親ドイツの王政に反対するソ連が支援した対ドイツ・レジスタンスの指揮官として頭角を現し、ブルガリア共産党による革命で王国が人民共和国となると軍のトップに。スターリン没後の1954年にブルガリア共産党書記長に就任して以降、1989年に冷戦構造が崩壊するまでブルガリアの最高指導者であり続けます。
そんなジフコフは日本の外務省のブルガリアのページでもわざわざ特記されるほどの日本贔屓で、秋葉原での買い物を何より楽しみにしていたそうです。
新憲法施行の前年1970年と、ここでの発言の前年78年にも来日しており、この79年には「東側」の共産党政権でありながら、日本からの皇太子訪問を迎えてもいます。

“均質なブルガリア人国家をつくるという政府の基本政策は続いた。
1984年、国内全域でジプシー音楽の演奏が禁止され、最大の少数民族であるトルコ人の民族的アイデンティティを最後の痕跡まで根絶させることを意図した二年間のキャンペーンが開始された。
キャンペーンは、1984年12月、ブルガリア風に改名を強制することから始まり、いまもトルコ人地域に住んでいたムスリムのロマにも深刻な影響を及ぼした。一部のモスクが閉鎖され、ムスリムの宗教的祝日が非合法化された。
トルコ人社会の強力な大衆的抵抗にブルガリア政府は暴力で応じた。1984年から85年にかけて300人から1500人のトルコ人が殺されたと推計されている。
激しい国際的非難の嵐が、いくつかの面でこの反トルコ・キャンペーンの有効性を失わせ、社会不安の空気をつくりだした(これが1989年のジフコフ体制崩壊の一因となった)。”

マイノリティの扱い方で日本を見習いたい、という発想が西洋ではどのような意味を持ち、どのようなイメージで見られているのかを知っておいたほうが良いと思うのです。
西欧や北米でレイシストとか極右、ネオナチと呼ばれるような組織のリーダーたちは口をそろえて、「我々の主張は日本のやり方よりもよっぽど穏健だ」と言いますよね。フランスの「国民戦線」のジャン=マリー・ル・ペンなんてその代表になるのでしょうが。
西洋の基準では現状でもレイシズムが公然化していると思われている日本で、それでもマイノリティに甘い!と叫ぶ人びとがどう見られるか。「甘い」のはいったいどちらの現状認識なんでしょうかね。



リンクしてあるのは、Azis & VANKO 1の「Kato tebe vtori nyama」。
アジスという人はここ数年で名前を聞くようになったブルガリアの歌手。彼はロマの出身で、しかも褐色の肌を持つロマ。そして名前はムスリム風ですね。それでいて一目で分かると思いますがゲイ。幾重にもマイノリティ性を持つ歌手なんです。
音楽のスタイルも「チャルガ」と呼ばれる、もともとはロマなどのブルガリアの楽師たちが踊りの伴奏としていたものを現代風にアレンジした大衆音楽出身で、この一文を書くためだけに聞きまくったのですが、・・・ええっと、ジャンルとして野暮ったいんです。
日本でもありますよね、ダンス音楽なんだけど音楽好きやダンス好きが集まるようなクラブではまず流れないタイプの、半裸の男性や女性が踊りながら歌うわりとドメスティックなダンス・ミュージックって。(具体的に名前をあげちゃえば日本だとEXILEとか)
でも、そういうもののなかにも境界を突き抜けていくものがあって、アジスはその突き抜けた一人になるのではないでしょうか。で、実はその時に彼の持つマイノリティ性が武器になっているのではないかな、とも。
・・・うう、でも調べていたら、マッチョばかりでもうお腹いっぱい。