ここまでのガルガンチュアとパンタグリュエルの物語を紹介するなかで挿絵として主に使ってきたのはポール・ギュスターヴ・ドレの描いたものです。

メモ垣露文

ギュスターヴ・ドレは19世紀の人物ですが、このドレという名前を聞くと、ラブレーと同じ時代に生きたエティエンヌ・ドレという人物を連想してしまいました。
カタカナ表記だとどちらも「ドレ」ですが、名前としては、ギュスターヴは「Doré」でエティエンヌは「Dolet」なので違うものです。でもカタカナで認識しているとつい。

メモ垣露文

エティエンヌ・ドレは1509年生まれ。カルヴァンと同じ年の生まれですね。
彼もまたユマニストの一員として知られる人物で、1536年にラテン語の註解書を書いたことでフランス国王に認められ、名前をあげました。
国王フランソワ1世が、彼に出版の許諾を与えたことから出版社とでも呼べそうなものを経営し始め、ラブレーの著作も彼の手によって編集出版されてもいます。

『ガルガンチュア』が発表された頃の彼の生活はといえば、1534年、トゥールーズ大学法学部に在籍していた際に学生運動を指導したとして放校処分の上で町から追放され、その年の夏からリヨンの出版社セバスチャン・グリーフ書店で編集者となっていました。

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“エチエンヌ・ドレは、1534年10月15日頃に、一時パリへ出てきていますが、10月17日から18日にかけて起こった事件――恐らく狂信的な新教徒の盲動に由来するいわゆる《檄文事件》――フランス・ユマニスムの成長にとっては致命的と言ってもよい不幸な事件に立ち会い、この事件の結果旧教派から峻厳な弾圧が下されるのを、ドレは目のあたりに見たものと思われます。
1535年の春上梓される『キケロを模範とすることに関する対話』の《序》として収録されたギョーム・セーヴ宛の長文の書簡(1534年11月9日附)に、ドレの心境は窺われるでしょう。

――・・・町ではルッター派の連中が主キリストに加えた侮辱の話で持ち切っています。この愚劣な連中は、不健全な光栄を求めて、最近キリスト礼拝に対する非難攻撃文を撒布したのです。
こういう人々に対する憎悪は非常に深刻になりました。何人もの人間が、ルッター派の誤謬を信奉していると見なされて投獄されました。
これらの人々の或る者は民衆の最下層に属し、他の人々は商人階級の最上層に属しています。
私は、見物人として、この悲劇を見ています。申すまでもなく、私はこれら哀れな人々を憐れみますし気の毒とも考えます。
しかし、愚劣な頑固さと我慢ならぬほどの強情さとのために、その生命を危地に陥らしめているのは、全く滑稽至極ですし、阿呆きわまると考えるのです、・・・”

25歳の一人のユマニストが見た「檄文事件」の光景です。
ラブレーが“うんこまみれの素敵な檄文”と呼んだように、ドレもまた“阿呆きわまる”と見ていますね。
プロテスタントのカルヴァンが「新しい狂信」を頼るほどにショックを受けた光景も、多くのユマニストたちにとっては、憐れむべき光景ではあるけれど、信仰のために火刑台へと自ら上がって行くことは考えられないものでした。

“一切の宗教は、精神の正しい直観力によって、畏怖と尊敬の念によって作られていることは識者の十分心得ているところである。
宗教は、あまり人々の口唇に乗せられすぎると、決してよいことはないものだ。宗教を論じ、あまり自由に、あまり長々とこれを文章に綴ると、崇敬の念を減少せしめ。畏怖の念をだんだんと消滅させることになるのが落ちである。
・・・ルッターやツウィングリ、エコランパディウスやブッツェル、エラスムスやメランクトン、ランベールやファレルは、聖書について、霊妙きわまる光彩陸離たる註釈を作ったけれども、キリスト教徒にどういう幸福をもたらしてくれただろうか。
また、更に近頃の神学者たちのあの欺瞞はいったい何だろう。”

ラブレーにしろドレにしろ、当時の知識人たるユマニストたちにとって、信仰は声高に語るものではなかったのですね。ましてや政治の道具にするものでは。
で、そうした道具としての信仰を彼らは茶化してみせたわけです。信仰を個人の良心に取り戻すために。
けれども、その結果、古き狂信のパリ大学神学部と新しき狂信のカルヴァン派のどちらからも憎まれ、逃亡生活を送らなければならなくなるのです。
・・・これって、現代でもそんなに変わっていないような感覚ってありませんか?

そして、ラブレーと同じくドレも、1544年にフランスからイタリアへと亡命をするはめになるのですが、ここで二人の運命は対象的なものとなります。

メモ垣露文

ラブレーは、イタリアで医学界の伝手を使ってローマ教皇自身から、言論人ではなく医師である、というお墨付きを貰いフランスに戻れば、カトリックからの攻撃も止まり、70歳と当時としては十分な寿命を遂げます。
しかし、出版界に属するドレは、フランス国王に嘆願書を抱えてフランスに戻ったところを逮捕され、37歳で火刑台に消えました。

この二人の没後、ラブレーは反プロテスタントのユマニスト、ドレは反カトリックのユマニスト、といった扱いで歴史の本に載ることになるのですが、本人たちは、きっとそんなこと思ってもいなかったでしょうね。



リンクしてあるのは、Luc Arbogastの「Nausicaa (La Moldau) 」。