「文明だ、なんて言ったって、しょせんはオリンピックだって商業主義に毒されているんだ!」と言いたい人もきっといるでしょうね。なので、ここからはスポーツと商業主義の話です。
パリ時間旅行 (中公文庫)/鹿島 茂

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“しかし、クーベルタンとて理念だけでオリンピックを組織できるはずはない。国際的な大会である以上、下敷にすべき組織論が必要である。
クーベルタンの頭にあったオリンピックのモデル、それは万国博覧会(エクスポジシオン・ユニヴェルセル)であった。ちなみにクーベルタンが1892年に初めてオリンピックを提案したときの文章には次のような言葉が書かれていた。
ボート漕ぎを、ランナーを、フェンシングの選手を展示(エクスポゼ)しようではないか。
未来の自由な交流(リーブル・エシャンジュ)がそこにある。
そしてこの自由な交流が古いヨーロッパの習慣の中に導入されたとき、平和という大義は力強い支えを得ることになるのである (拙訳、ロラン・ユブシェール『動きの中の歴史』に引用)

世界中のあらゆる商品を展示(エクスポゼ)し、そこで商品同士を競争させることにより、自由貿易(リーブル・エシャンジュ)を促進して、公正な資本主義社会をつくりだすのが万国博覧会の目的であるなら、オリンピックの目的は商品に代えて人間を置き、競争によって、人間の肉体的能力を向上させ(より速く、より高く、より遠く)、その一点において人間の自由な交流(リーブル・エシャンジュ)を図ることにあるというわけである。
いまでこそ金銀銅のメダルの授与は、オリンピック固有の制度のように思われているが、実は、これもパリ万博のアイディアをそのまま拝借したものにすぎないのだ。”

万博とオリンピックは表裏一体の存在なのかもしれません。例えば、東京オリンピックは1964年で大阪万博は1970年。オリンピック誘致を目指し失敗した名古屋は2005年に愛・地球博を開催しています。
中国では北京オリンピックが2008年で上海万博が2010年に。韓国では麗水万博が2012年で冬季の平昌オリンピックが2018年。なんだか、当事者以外からは、この三ヵ国はどれも百年ほど時代遅れの田舎者にしか見えないのかもしれない、って不安になりませんか?
“そればかりではない。クーベルタンは当初、第一回オリンピックを1900年のパリ万博にあわせてパリで開催しようと考えたのであるが、それではいくらなんでも間があきすぎるという意見がギリシャ代表のビケラスからでたので、両者協議の結果、急遽、第一回大会はオリンピック発祥の地アテネに落ち着いたのである。そして、この選択は結局のところ正しかった。というのも、アテネ大会はマラソンでギリシャの水売りが優勝するなどして大成功をおさめたが、クーベルタンの意を汲んで1900年にパリで開かれた第二回大会は、万博の陰にかくれてほとんど話題を呼ばなかったからである。”

で、話を戻して、スポーツ選手の肉体というものは、その初めから“商品”なんです。オリンピックで金メダルを獲るのは、お酒の品評会で金賞を獲るのと何ら変わるところはありません。
逆に言えば、だからこそ、そこには“理念”が必要なんです。
このポスターのフェンシング選手の衣装、なかなか可愛いでしょ。黒いレザーのワンピースにハートのワンポイント。それで足もとはコサージュの付いたハイヒール。白いグローブで差し色いれて、商品をきれいにラッピングしてあります。
“このように、世紀末のフランスに突如わきあがったスポーツ熱は、クーベルタンの場合でも実践よりも言説が、とりわけ理念的言説が先行する形になったが、じつは、同じ世紀末に、こうした言説主導のスポーツ熱とはまったく別のところで、フランス特有のスポーツ形態が形成されつつあった。それはテクノロジーの進歩によって生まれたスポーツ、つまり自転車競技と自動車競技である。”
と次に続きます。・・・たぶんあと一回でこの記事群は終わるかな。
リンクしてあるのは、2012年オリンピック・ロンドン大会時のインドにおける応援ソングです。
商品ではない人間に求められているのは、こうした物語ではありませんか?もちろん物語は物語でしかないのですが・・・。
カネ、カネ、うっさいんですよね。そんなことは百年以上も前から分かってんだから、今さらドヤ顔で語るなって。
どっかの都市では、理念も物語も無く、カネカネ言いながら誘致活動をしていますけどね。
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“しかし、クーベルタンとて理念だけでオリンピックを組織できるはずはない。国際的な大会である以上、下敷にすべき組織論が必要である。
クーベルタンの頭にあったオリンピックのモデル、それは万国博覧会(エクスポジシオン・ユニヴェルセル)であった。ちなみにクーベルタンが1892年に初めてオリンピックを提案したときの文章には次のような言葉が書かれていた。
ボート漕ぎを、ランナーを、フェンシングの選手を展示(エクスポゼ)しようではないか。
未来の自由な交流(リーブル・エシャンジュ)がそこにある。
そしてこの自由な交流が古いヨーロッパの習慣の中に導入されたとき、平和という大義は力強い支えを得ることになるのである (拙訳、ロラン・ユブシェール『動きの中の歴史』に引用)

世界中のあらゆる商品を展示(エクスポゼ)し、そこで商品同士を競争させることにより、自由貿易(リーブル・エシャンジュ)を促進して、公正な資本主義社会をつくりだすのが万国博覧会の目的であるなら、オリンピックの目的は商品に代えて人間を置き、競争によって、人間の肉体的能力を向上させ(より速く、より高く、より遠く)、その一点において人間の自由な交流(リーブル・エシャンジュ)を図ることにあるというわけである。
いまでこそ金銀銅のメダルの授与は、オリンピック固有の制度のように思われているが、実は、これもパリ万博のアイディアをそのまま拝借したものにすぎないのだ。”

万博とオリンピックは表裏一体の存在なのかもしれません。例えば、東京オリンピックは1964年で大阪万博は1970年。オリンピック誘致を目指し失敗した名古屋は2005年に愛・地球博を開催しています。
中国では北京オリンピックが2008年で上海万博が2010年に。韓国では麗水万博が2012年で冬季の平昌オリンピックが2018年。なんだか、当事者以外からは、この三ヵ国はどれも百年ほど時代遅れの田舎者にしか見えないのかもしれない、って不安になりませんか?
“そればかりではない。クーベルタンは当初、第一回オリンピックを1900年のパリ万博にあわせてパリで開催しようと考えたのであるが、それではいくらなんでも間があきすぎるという意見がギリシャ代表のビケラスからでたので、両者協議の結果、急遽、第一回大会はオリンピック発祥の地アテネに落ち着いたのである。そして、この選択は結局のところ正しかった。というのも、アテネ大会はマラソンでギリシャの水売りが優勝するなどして大成功をおさめたが、クーベルタンの意を汲んで1900年にパリで開かれた第二回大会は、万博の陰にかくれてほとんど話題を呼ばなかったからである。”

で、話を戻して、スポーツ選手の肉体というものは、その初めから“商品”なんです。オリンピックで金メダルを獲るのは、お酒の品評会で金賞を獲るのと何ら変わるところはありません。
逆に言えば、だからこそ、そこには“理念”が必要なんです。
このポスターのフェンシング選手の衣装、なかなか可愛いでしょ。黒いレザーのワンピースにハートのワンポイント。それで足もとはコサージュの付いたハイヒール。白いグローブで差し色いれて、商品をきれいにラッピングしてあります。
“このように、世紀末のフランスに突如わきあがったスポーツ熱は、クーベルタンの場合でも実践よりも言説が、とりわけ理念的言説が先行する形になったが、じつは、同じ世紀末に、こうした言説主導のスポーツ熱とはまったく別のところで、フランス特有のスポーツ形態が形成されつつあった。それはテクノロジーの進歩によって生まれたスポーツ、つまり自転車競技と自動車競技である。”
と次に続きます。・・・たぶんあと一回でこの記事群は終わるかな。
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商品ではない人間に求められているのは、こうした物語ではありませんか?もちろん物語は物語でしかないのですが・・・。
カネ、カネ、うっさいんですよね。そんなことは百年以上も前から分かってんだから、今さらドヤ顔で語るなって。
どっかの都市では、理念も物語も無く、カネカネ言いながら誘致活動をしていますけどね。