イニシエーションという単語が、日本で一般的に知られるようになったのは、1995年の地下鉄テロを実行したカルト教団を報道するなかでのことでした。
ここまで紹介してきたようなキャンベルの知識は、1983年に「スターウォーズ」の第二部三部作が完結したと同時に日本国内でもブームとなり、資本主義のなかに取り入れられていきます。
なにやらいまいち曖昧模糊としているけれど名前だけは有名な“ニューアカデミズム”はそうした文脈のなかで当時、流行語となったのでしょう。

この物語の構造のみをマーケティングに特化させて利用しようとしたのが、

物語消滅論―キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」 (角川oneテーマ21)/大塚 英志

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“1980年代末に主として電通の人たちを中心に推し進められていった、ストーリー・マーケティングというマーケティング理論の考え方です。これは当時、電通に福田敏彦というマーケッターがいて、彼が中心になって提言していた理論です。つまり商品は使用価値ではなくて記号的な価値によって今や流通するというボードリヤール的な考え方ですね、それが、広告屋さんたち、あるいは商品開発者たちの前提になっていた時代の出来事だった。たとえば、コップは「水を飲むのに便利」という使用価値ではなく、このデザインのコップをインテリアとしておくとオシャレとかカッコイイとかクールとか、何でもいいけれど、デザインの勝ち、つまり記号的価値でお客さんは物を買うんだという発想です。
~(中略)~
しばしば「物を買うのではなく、物語を買うんだ」という陳腐な言い方が当時されていたのですが、そこにはストーリー・マーケティングの考え方が前提にあったのです。”

“重要なのは、そこにプロップの民話の形態論やグレマスの行為者モデルといった、文化人類学の学生にとって初歩的な知識レベルの構造主義的説話論、物語論が流用されていったことです。”

グレマスの行為者モデルとは、キャラクターの配役モデルのことです。主体・対象・援助者・敵対者・送り手・受け手といった配役ですが、プロップと話がカブるし、その説明を本格的にやるときりがないので今回は扱いません。

神話や民話の構造をマーケティングに使うことによって、商品に魔法をかけたのです。
魔法とは大げさに過ぎるかもしれませんが、例えば、小学生の女の子に大ブームの洋服ブランド、中学生に大ブームの・・・と年齢階梯ごとにファッションを提供することによって、高校生にもなってそんな服を着てんのかよ、みたいな感覚を植えつけることです。

メモ垣露文

私の若い頃でしたら、週刊少年ジャンプを読んでいた男子小学生が、中学生になってファインボーイズで服を選び、高校生になったらメンズノンノで服を選ぶ。そんな風に商品によって年齢階梯を昇っていく、と言ったら分かりやすいかな、いや、かえって分かりにくいか?
ま、いいや。
で、そういった商品の物語化が極まったのが1990年代半ば頃。
以前に“大きな物語”という話を散歩話第56~72回にかけての「少し不思議」という記事群でしているのですが、ここで日本の物語は行き詰ってしまったようです。
その帰結が90年代から始まる“失われた20年”。
とは言うものの、まだこの喪失は終ってはいなさそうですが。

魔法ファンタジーの世界 (岩波新書)/脇 明子

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シーラ・“イーゴフは、ファンタジーがリアリズム作品さながらの現実味を持つようになり、そのなかで主人公が超能力を使って問題解決をするケースが多いことに危惧の念を表明している。
「不幸な若者が自分を護ろうとすると、心霊力と暴力が結びつくことは、今や常套手段と化した感がある」とイーゴフは言う。かつてのファンタジー作品は、明らかな別世界を舞台にするか、さもなければ、おとぎ話的な文体で現実味を抜くかしていた。ところが、現在のファンタジーには、読者の日常と連続したリアルな世界を舞台に、ごくふつうの子どもや若者にすぎなかった主人公が、心理的に追い詰められた末に潜在していた超能力を開花させるものが多く、しかもその超能力の使い方が、しばしば暴力的だというのだ。”

本来、太平洋のバヌアツの成人儀礼であったバンジージャンプが、遊園地の遊具になったように、ひとたびマーケティングされた“物語”は、過去の歴史とは切り離されて消費されてしまうのです。

と、ここまで書いたところで時間切れ。もう少し続きます。