「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」

                      (「葉隠」から山本常朝の言葉)

あらすじ

安政7年初頭、彦根藩江戸屋敷の納戸役志村家の志村金吾(中井貴一)は彦根からせつ(広末涼子)を嫁に迎えた。それと共に剣術の達人だった金吾は藩主井伊直弼(中村吉右衛門)の近習警護役を拝命し家督を相続した。金吾は藩主にお目見えした際、藩主が詠んだ短歌の短冊を拝領して「命の限りお守りします」と誓いを立てた。

 

当時藩主の直弼は、朝廷の許可なく通商条約を結んだり安政の大獄と呼ばれる吉田松陰や橋本佐内を処刑して尊王攘夷を唱える者たちからは恨まれていた。安政7年3月3日の節句、直弼は江戸城に登城することに決めていた。早朝「大老襲撃の企てあり」の通報があったが「全て天命、身が尽きるまで懸命に生きるものだ」と警護を増やすことなく登城ることにした。

 

その日は雪が降っていた。井伊直弼は徒士26名、足軽・駕籠かき36名で江戸城に向かう。途中、直訴の武士が現れた。行列は立ち止まり金吾が直訴状を受け取ろうとした矢先、抜刀して切りかかってきた。と同時周囲から18名の水戸浪士が警護徒士に切りかかり藩主の駕籠へ向かう。金吾は刀の柄に雪よけの袋を掛けていたため、刀がすぐに抜けなかった。金吾は将軍から恩賜の槍を浪士に奪われたため、槍を取り戻そうと浪士を追った。その間に銃声がして直弼の駕籠は数人の刃に突き刺さられた。藩主は即死。藩士8名も即死し、8名が重傷を負った。

 

江戸屋敷の家老は、切腹をしようとする金吾に対し、「国元の両親が自害したため、その方は切腹では済まぬ。水戸浪士の見つけてその首を殿の墓前にお供えせよ」と下命が下された。そんな金吾は主君の仇を討ち果たしたのち切腹する覚悟だったから妻のせつを離縁しようとしたが付いて行くと聞かなかった。襲撃した水戸浪士は8名が死亡、5名が自首し斬殺された。残りの5名が逃亡した。金吾5名の氏名と人相書きを頼りに仇討せざるを得なくなってしまった。

 

金吾は妻のせつの働きで暮らしながら水戸浪士の所在を探し、ついに13年も経過した。時代は替わり廃藩置県で大名はいなくなり、武士たちは失業してそれぞれの適職を求めた。ある日、巡査になっていた元彦根藩士内藤新之助(高嶋政宏)と出会う。内藤は金吾に職を得ろと助言したが、金吾は仇討に固執している。内藤は上司で、過って評定衆であった司法省警部の秋元和衛(藤達也)に残存している水戸浪士の所在を調べるよう頼んだ。水戸浪士で生き残りの1名となっていた。それは佐橋十兵衛(阿倍寛)で、今は直吉と名を変え車夫として長屋で暮らしていた。

 

明治6年2月6日、志村金吾宅に秋元和衛から会いたいとの手紙が来た。折しも2月7日太政官布告で「仇討禁止令」が出された。2月7日、金吾は秋元の家に行く。秋元は「仇討禁止令」を金吾に告げ、「時代は変わった。汚名返上も家督継承も関係なくなった。雪の中の椿の花のようにひた向きに生きよ」と説得した。金吾は反論したが、唯一の逃亡犯、佐橋十兵衛が人力の車夫だと教えた。

 

その夜、金吾は人力車ステイションに行き、直吉と名乗る佐橋十兵衛(阿倍寛)と対面し人力車に乗る。妻子はいるかと聞くと「やもめだ」と答える。「若気の至りで人の命に手をかけた。その人の一字をもらい直吉と名乗る」という。そして柘榴坂に来た。直吉も金吾が仇討の人だと察していた。「そこもとのご執着に頭が下がります。本懐を遂げられょ」と言う。

 

金吾は人力車から降りて、「13年前の主君の仇を討ちたい」と十兵衛に促す。もともと討ち取られる覚悟の十兵衛に本刀を渡し、金吾は脇差を使うことにした。お互いに刀を合わせたが、死ぬ気の十兵衛は倒れる。だが、金吾は殺す気を失っていた。「主君は命がけで訴えたものをおろそかに扱うなと言った。おぬしは命がけで殿を殺した。そんなおぬしを討つことはできない。わしも生きるから生き抜いてくれ。」と男泣きをする。

 

二人は柘榴坂から引き上げた。十兵衛は長屋に帰り、想いをかけてくれている母と娘の住む長屋を訪れ将来を考えた。金吾は妻のせつが働く料理屋を訪ね一緒に自らの住む長屋へ帰っていく。

 

感想など

中井貴一も阿部寛も広末涼子も好きな俳優である。ただ、井伊直弼を演じた中村吉右衛門の存在感は抜群だった(世代が同じで?)。作品も生真面目に作られていて見ごたえがあった。原作は短編のようだが、武家社会のしきたりや時代の流れ、主題の「桜田門外の変」に関わったさまざまな人達の主義主張や時代に翻弄されて生き抜く運命の様子を史実からの空想を膨らませて物語に仕立てた娯楽性は面白くよくわかった。

 

この映画主人公は、井伊直弼のSPだった近習志村金吾の過酷な生き様を描いている。無論、フィクションだから実在の人物ではない。井伊直弼の登城は事実で万延元年3月3日、雪の激しく振る日だった。警護の徒士は26名、足軽・駕籠かきは36名だった。テロリストは水戸浪士17名・薩摩浪士1名で暗殺戦で双方、十数名が即死した。

 

高校の日本史を見ると「1860年(万延元年)、井伊直弼は江戸城へ登城の途中、桜田門の近くで水戸浪士たちに襲撃され暗殺された。(桜田門外の変) この事件は、幕府の専制的な政治に大きな打撃を与えた。」とある。いわゆる討幕運動と幕府崩壊のはじまりが時代背景にある。

 

井伊直弼が暗殺されたため、警護の徒士たちは職務怠慢で切腹・斬首など処分が命じられたが、志村金吾には切腹以上の重い処分が家老より下される。「逃亡の水戸浪士等の首を取って主君の墓前に供えろ」というものだった。逃亡者の5名の氏名・似顔絵などが渡され、追うこととなった。

 

ここで留意したいのは、井伊直弼と志村金吾の関係であろう。井伊直弼は、彦根藩当主の十四男として、陽の当たらない部屋住みで政治よりも文化芸術に長けていた。予定外の当主と大老職への就任だ。だから大胆に大鉈が振るえた。そんな直弼に仕えた金吾だから主従の強さが並でない。殿への敬愛と滅私奉公の精神はゆるぎなく、警備の不手際は耐えが仇討を貫徹して自死する覚悟だった。

 

原作者が想像を膨らませた中心にあるのが、山本常朝の葉隠にある武士道とは死ぬことと見つけたり」の思想であろう。まず、殺された井伊直弼自身が死を覚悟してその日登城したことである。直弼は出会った直訴人に対し「かりそめにも命がけの訴えをおろそかに扱うな」と金吾に言ったのはテロリスト達にも言い分があり、自分が殺されることもしかたないことだという意味があったものだ。

 

佐橋十兵衛方も13年前のテロで直弼を殺してから自分も自害すべきだったのを死にそびれたことを後悔していた。金吾も不手際を切腹で償うべきを許されなかった自分を嘆いていた。どちらも武士としての使命を果たしていないことを恥じている。そんな両名が、映画のラストで、果たし合いをするのだが、お互いに相手を殺す気持ちはないままの切り合いである。結局、お互いに命がけでやり抜いたのだから、もういいだろうということで和解することになる。

 

井伊直弼は、万延元年3月3日桜田門外で、水戸浪士らによって暗殺されたのだが、事件直後、井伊直弼は殺されていなかったと幕府は発表している。それは暗殺だと井伊藩をお取りつぶしにしなければならないのと水戸藩と抗争を産む火種にしたくないと時の老中等が判断したからだ。病死として井伊藩は維持されたわけである。事件当事者たちの知らないところで政治はなされていたことが面白い。

 

画像

 

タイトル                                 志村金吾の祝言

  
井伊直弼の警備を拝命         3月3日江戸城へ登城
  
水戸浪士らが襲う             直弼暗殺
  
金吾は仇討を下命される         逃亡者の名と人相書きをもらう
  
明治維新                  逃亡者の佐橋十兵衛は車夫となる
  
過っての仲間は警官になる       仇討禁止令の布告
  
司法省警部から情報を聞き出す    車夫の佐橋と対面の金吾
  
仇討を頼む                  決闘 
 
殺せない生きよと佐橋を諭す        妻の元に帰る金吾