「外国主権免責法で訴訟が起こせる」

             (「黄金のアデーレ」からランディの言葉 )

あらすじ

1907年ウィーンの銀行家フェルデナント・ブロッホ=バウアーの依頼で画家グスタフ・クリムトは、油彩・金箔・銀箔を使い「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像1」(黄金のアデーレ)を作製する。絵画はブロッホ・バウワー家の所有だった。

 

1998年、ロサンゼルスで、ブロッホ・バウワー夫妻の姪にあたるルイーゼという老女の葬儀が行われた。老女の妹マリア・アルトマン(ヘレン・ミレン)は姉の遺品の中にある手紙を見つけので知人に相談した。知人は息子ランディ・シェーンベルク(ライアン・レイノルズ)が弁護士なのでマリア宅へ行かせる。ランディは、大手弁護士事務所に就職したばかりだつた。

 

マリアが見つけた手紙は、ウイーンの弁護士からのもので、大戦中ナチが没収した絵画類を美術品返還法の改正で、昔の訴えを再審してくれるというものだった。現在、「黄金のアデーレ」の絵はウイーンのベルベデーレ美術館が所蔵しているので取り戻したいとマリアは言う。ランディは、就職したばかりで躊躇したが、「黄金のアデーレ」の評価額が1億ドルと知り、事務所の上司を説得。出張調査の許可を得た。

 

ランディはマリアに同行を促したが辛い思い出の地ウイーンに行くのを躊躇したが同意する。ウイーンに着くと雑誌記者フベルトウス(ダニエル・ブリュール)がお手伝いしたいと申し出た。とりあえずベルベデーレ美術館で「黄金のアデーレ」を見る。また、亡命前に住んでいた自宅を見て、当時のナチスが財産を収奪した様子を思い出した。ただ、ナチスはクリムトの絵の退廃的雰囲気を好まず、ドイツの美術館が引き取り、戦後ベルベデーレ美術館に渡された。

 

ランディ達はベルベデーレ美術館のフベルトウスの友人の館員に過去の資料を調べさせてもらう。膨大な資料の中にアデーレ夫人の遺書があった。1925年亡くなる二年前の遺書には「夫の死後にベルベデーレ美術館に寄贈したい」とあった。アデーレ夫人の夫フェルデナントは1945年に亡くなっていた。ナチスが収奪したのは1941年である。そんな中、クリムトの領収証も見つかる。代金はフェルデナントが払っていたのだ。こうなのとアデーレ夫人の遺書は希望でしかない。法的な所有者はフェルデナントなのであった。

 

資料を見つけた3人は、オーストリア文化省が行う返還審査会の再審査会場でマリア夫人は返還の正当性を主張した。そして領収書を証拠として見せようとしたが、アデーレ夫人の遺言書の意思に基ずいて、審査会議長は「黄金のアデーレ」オーストリアの宝であり、ベルベデーレ美術館に留め置くことが正当であるとマリア夫人の返還要求を却下した。残る手段は裁判だが、オーストリアで裁判を行うには、180万ドル(絵画の価格から算定)の預託金が必要とのことで諦めることになる。

 

9ケ月後、ランディは書店にベルベデーレ美術館のカタログが売られていることに気づき買う。美術館が米国で商業活動している場合、「外国主権免責法」が除外されており、米国の裁判所にオーストリア政府を相手取り訴状を出すことができたのだ。そのためランディは法律事務所を退職して、領事館へ訴状を出した。そして裁判が行われる。

 

裁判中、古い知人の資産家ロナルド・ローダー氏から裁判への強力を打診されたが断る。連邦最高裁判所の審議は続くがオーストリア政府の引き延ばし戦術も加わり長期戦の様相を見せる。そのため。ランディはマリアの年齢を考え、和解調停をしてはと助言する。当初、和解を拒否していたマリア夫人もしかたないと思い、ウイーンで行われる和解調停委員会にランディが行くことを認めた。

 

ウイーンの調停委員会は3人の調停委員とオーストリア政府、ランディ弁護士が参加し、資料提出のほか口頭弁論が行われた。調停委員や傍聴のオーストリアの人達にもナチスに協力して不当な行為を行ったことに対する償いをするべきという気持ちの人が多かった。そのため「黄金のアデーレ」は返還すべきという調停が発表された。返還された絵画は、1億3500万ドルでローダー氏に売却され、ニューヨークのノイエギャラリーに展示されている。

 

感想など

絵画「黄金のアデーレ」の所有者が、ナチスのオーストリア侵攻とユダヤ人虐待のため国外亡命した。ナチスは残された絵画を収奪して美術館に収蔵した。米国に亡命した所有者の姪がオーストリヤ政府との交渉や法廷闘争や調停を行い取り戻すという内容である。要は「黄金のアデーレ」の作者や所有者はユダヤ人で、ナチスや当時ナチスに協力したオーストリア政府の非人間性を糾弾しているのである。

 

相続者はドイツのオーストリヤ侵攻によるナチスの財産略奪の不当性やホロコーストの非人間性の糾弾が主張され、ユダヤ人の被害意識を強調している。1941年の絵画収奪は明らかに不当であるのは自明だが、アデーレ夫人の遺言には、贈与され自分のものだという確信と絵画の将来に向けた願望が込められている。だとすれば、オーストリア政府の主張には正当性もあり、半世紀にわたり絵画を管理し公共に供してきた実績は、不当というより評価されても不思議はないような気もする。

 

オーストリア政府は、当初の所有者アデーレ夫人が「夫フェルディナントの死後はベルヴェデーレ美術館に寄贈する」という遺書を残し1925年に病死したので美術館のものだと解釈する。フェルディナントは1945年に亡くなり、1941年にナチスが収奪したが、絵画の領収証から法的所有者はフェルディナントであり、フェルディナントに遺書があれば返還できると雑誌記者等は判断した。しかし、フェルディナントが代金を払ったとしても、フェルディナントからアデーレ夫人に生前贈与されていたらどうだろう。夫が妻に宝石や財産を口頭で贈与することはありうる。夫人は自分の絵が私人に保管されるよりも美術館に保管されることを望んだはずだ。ところが所有者の姪が正当な相続者で返還しろとオーストリア政府と戦うことになる。

 

映画は米国の「外国主権免責法」の例外規定に該当するとして裁判し、アメリカの連邦最高裁判所がマリア夫人の主張を認めた裁判を進行する。ただ裁判の長期化を恐れ弁護士は和解調停をオーストリア政府に掛け合う。しかし、マリアは和解しようとはせず、雑誌記者と共に全面返還の交渉をやり続け、過去の歴史と向かい合うことで調停委員を説得。「黄金のアデーレ」はマリアの元に返還されることとなる。

 

ただ、この映画は返還を勝ち取った側が製作したものである。マリアの勝ち取った行為が正当であり、よくやったという雰囲気で作られているのだが、見ていたものとしてどうも同感できないし、おかしいとも感じる。映画に逆らうようだが、私個人としては、オーストリア側の方が正しいように思えてならない。公共的美術館の展示物から個人の所有物にせざるを得ない強引さにはどうも敗戦国と勝戦国の力関係がちらつき納得しかねるのだ。

 

日本における「主権免除」の法整備

 主権免除とは

国家の行為や財産は外国の裁判所で被告志として裁かれることはないという国際法上の原則がある。ただし制限免除主義の考え方もある。例えば広島原爆被害者はアメリカを被告にすることができず、日本政府に補償を請求しているなどがある。

現在、韓国裁判所による慰安婦訴訟、元徴用工訴訟への判決が出て、日本政府は「主権免除」や「条約で解決」として無効を主張している。

 日本での法整備

2004年に「国家及び国家財産の裁判権免除に関する条約」を採択している。

2009年に「外国等に対する我が国の民事裁判権に関する法律」が制定された。

 

絵についての感想

やはり農耕民族の絵ではなく狩猟民族の絵である。装飾性とエロスを強調し、深層心理を揺さぶるものはある。甘美で妖艶で官能的であるが人間の心の底にある不安や死も併せ持つ。クリムトは日本の文化の甲冑や能面のコレクションを持ち影響を受けているというがたしかに影響はあるもののあくまで西洋の魂の表現様式である。絵は生身の人間でなくむしろ妖精や精霊のように感じる。クリムトもそうだが、モディリアニやムンクあるいはピカソの絵は素晴らしいのだが、自分の部屋には飾りたくない絵が多い。

 

ギャラリー

 

タイトル                        姉の遺品の手紙について知人に相談

 

マリアは絵のモデルの姪だった         知人の息子の新米弁護士に手紙を見せる

 

叔母に子供はなくなくマリアは可愛がられた  雑誌記者が協力

 

                      美術館に行き絵と再会

 

ナチに絵画を収奪された              叔父のマリアに財産を渡すと遺言書

 

返還審査会で主張するマリア           審査会は主張を却下した

 

諦める                         美術館のカタログが米国で売られていた

 

米国内で訴訟ができると分かる          裁判所は主張を妥当だと判断

 

協力者も現れる                   連邦最高裁での裁判となる

 

調停和解を申し立てる               調停委員は返還を妥当とした

 

NYのギャラリーで展示する            モデルと作品(過っての思い出)