あらすじ
パレスチナ自治区難民キャンプで育ったガーダは23歳。1987年の第一次抵抗運動が起こると、イスラエルによる大学の閉鎖で、ガーダは教師養成学校へ入学。卒業後は三年間教師として勤める。
その後、1995年にナセルという男性と結婚することとなる。
パレスチナは、男性社会で古い習慣が残っていて、女性は親のため家のため、乗り気しなくても強いられて結婚する場合が多い。ガーダはそれに逆らっていた。結婚式のパーティだけは、古い習慣に則って行ったが、一週間のエジプト旅行は行った。
帰国後、ガーダはナセルの30人の家族と同居生活の専業主婦となる。家族間では、名前を言わず「私は叔父さんの奥さんです」と自己紹介するなどの家族制度であったが、翌年2人はガザ地区へ別居する。そして出産。
2000年、第二次抵抗運動が勃発して、戦闘が再会し、ナセルの従兄弟の息子カラム(13歳)がイスラエル兵の銃撃で死亡する。
そのカラムの死によって、ガーダは1948年以降の戦争体験をしたパレスチナの女性達の生き様を本に書いて未来へ残そうと決心をする。
イスラエルに家を壊され、難民キャンプで暮す、100歳のハリーさんから、今なお生きてゆこうとする心意気に感動し魅せられる。
また、実家の祖母から戦争で、土地も農業もすべて失い、ユダヤ人が占領後何人もパレスチナ人を殺している現状を聞かされる。
知り合いのバシームさんからは、イスラエル軍はガザ地区南部の入植地のパレスチナ人の家を破戒し、テント暮らしをさせた。彼らには同じ苦しみを味わいさせたいと聞く。
またガザ北部でもイスラエルは、我々を追い出すつもりで、畑の刈り取りもさせず、銃撃してくることを聞き、ガータはパレスチナの本当の嘆きと苦しみの現状を知る。
自分は子供達を育て、未来へのメッセージを残すため、本を書くことで戦おう。また、隣人は隣人を助けて戦おう。祖母は歌で生活の尊さ、自由、樹木、空、心の平和なと゜歴史や文化を歌い続けて世代ら世代へ歌い継いで戦おうと訴える。
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解説・感想など
 
1 監督の古井みずえ氏は、37歳で関節リュウマチで歩行困難となるが投薬で奇跡的に回復。そのとき一度の人生だ。何かを表現したいとOLを辞め、ジャーナリストとしてパレスチナに渡り、パレスチナの女性「ガーダさん」と知り合い12年間生活を共にして、男性ではできない女性の実態を撮影したドキュメント映画である。
 
2 冒頭の説明で、1948年以前のパレスチナは、恵まれた平和な土地だったが、ユダヤ人が、1948年にパレスチナの土地にイスラエルという国を建国した。そのため、75万人のパレスチナ人が故郷を追われたとある。
その後、アラブ諸国や欧米、ソ連などが複雑に絡み、現在までイスラエルとパレスチナは戦闘が続いた。
2009年、米国のオバマ大統領は、イスラエルに入植地拡大の中止を呼びかけた。そしてパレスチナ国家樹立の「二国家共存」を支持した。
2011年、米国の仲介で両国が間接交渉したが、イスラエルの入植地拡大では妥協がなく、交渉は打ち切られている。
 
3 古井監督は、ガーダさんの生活に密着し、夫の家族との同居、出産の様子、パレスチナ人の生活、踊り、歌、戦闘の様子、壊された家屋、荒れた畑、難民キャンプ、などなど長い期間撮影し、編集している。
女性ならではの目線で、暖かくときには厳しく、危険を顧みずやったことには脱帽する。
 
4  難民キャンプや戦闘による破壊など比較できる問題ではないが、東日本の震災や原発事故による避難と重ね合わせてしまう。
ただ、どちらもまだ、先が見えてこない状態は共通しているような気もする。
 
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          ガーダさん                          ガーダさんの結婚式          イメージ 5      イメージ 6
    夫の家族との同居(食事風景)                                       抵抗戦闘の様子イメージ 7     イメージ 8
   パレスチナの人々の抵抗の叫び                 バシームさんの叫び