1975年9月20日公開の松竹映画で全国2本立てで同時上映は「童貞」という五十嵐淳子(中村雅俊の奥さん)
主演の映画だったようだがそれはまったく記憶にないが、1975年には11歳だったのでこの映画が横須賀のヨコビル映画街(4Fと5Fを合わせて映画街と言っていたが実際はそれほど大きくないビルのワンフロアー)
の4Fにあった横須賀名画座という座席数45席の小さな劇場での上映だった。(もしかしたら120席の有楽座だった可能性もある)
いずれにせよ、この映画の本拠地、ご当地、そのものである横須賀中央の映画館での上映がこの小さな劇場であったことに深くがっかりするオイラ。見たかったが行かなかった。(地方ってえてしてそういうものだよね。かけるにも大きな劇場は人気洋画の上映で埋まっちゃってるから。地元の人が地元の映画を必ず見に来るということでもない)
ちらしはぴあのページより。
この2本だてだが、どちらがメインか?おそらく
港のヨーコだとおもうんだが。
ビデオもDVDも発売ナシなので見たことすらない映画であったが衛星放送で放送される(何度も放送される)というので衛星放送に初めて入ったのだが、ハイビジョン放送と云うのでデータも重いのかと思ったらフルハイビジョン
- Full HDi - 1920 × 1080 走査線540本のインターレース方式(有効垂直解像度1080本)
- ではなくただのハイビジョンだった。
- HD - 1280 × 720 プログレッシブ方式 (有効垂直解像度720本)
簡単に書くとDVD画質と同じくらいの容量しかないのでTVで見るにはいいがミー坊のようにホームシアターで上映する人にはやや軽いので
簡単に書くと映像が汚いのだ。
とにかく録画して観た。
山根成之監督の作品は好きなのがいっぱいあるんだがこれはひどい代物だった。
完全にやっつけ仕事で時間がなくなんとか期日までに脚本を書き上げて撮りましたというだけの作品に見える。当時はこういったものも多く、それで90分時間がもてばいいのである。当時は映画需要にまにあわなかったんだよな。ある種いい時代であった。
映画のなかで、
南京町(なんきんまち)と云う言葉が出てくるがこれはまだ横浜の中華街が中華街
と呼ばれる前の呼び名かも。
このころ(1974年)はまだピーナッツのことを南京豆(なんきんまめ)と云う人も多かった、南京虫(シラミに似た虫でおいらはシラミも含めて見たことはない)というのもあった。いま使われているのは南京錠(ペッドロック)くらいじゃないかなあ。
神戸の中華街はいまでも南京町と呼ぶ人もいるらしい。
この映画だが基本ロケでの撮影場所は横浜の
黄金町界隈(川沿い)とか山下公園あたりであって、
自分がみる限りだと本当に横須賀で撮影されているのがはっきりとわかるのはワンシーンのみで
京急汐入駅のうらのトンネルのところで昔はたしかにサンタナという外人向けバーのあった場所が
早乙女愛と曽我町子(立ちんぼの女性役だが汐入でこの時代にたちんぼなんて1ッ回だってみたことがないから、
脚本家山根成之のそういうイメージなんだろうなあ)のシーンで出るだけだ。
この時代だと横須賀の人通りのある場所で映画撮影なんてやると人だかりができてしまうほど珍しく
夜、ゲリラ的にささっと撮影したっポイ。大船撮影所からも近いしね。
ちなみにおいらのいっていた横須賀幼稚園はこのすぐそばで、今思うとあんまり環境が良くないね。(幼稚園は今も健在)
油壺(三浦市)の別荘に不良がたむろしてたり
そういう不良のイメージしかないのかなと、横須賀市民なら思っただろう。
この映画の主役の早乙女愛もあんなに早くしかも遠い米国で亡くなるとはね。
70年代までは東映もトラック野郎の併映作品はひどいのが一杯。(いいのもあるが)
せんだみつおのこち亀はおぼえているが。東宝は百恵友和の併映はかなりやっつけものもあった。
お嫁に行きますとか。ピンクレディの活動大写真に関してはメインのそれがやっつけだった。
いまみると懐かしいが、ちゃんとした映画を撮るお金も時間もなかったんだろう。ピンクレディのギャラにもよるが、無茶苦茶ではなかっただろうから、東宝はすごく儲かったはず。トラブルマンという川島えいごの映画もあったなあ。2本だてのB面ばっかり集めたリストをつくればなんとなく内容を、おもいだすかも。