
Wikipediaよりチベットと東トルキスタン(ウイグル)について抜粋引用させて頂きます。
◆中国のチベット侵略と弾圧
清国の滅亡以来、中華民国歴代政権は、実効支配が及ばず、実質上の独立国として存在していたチベットを「中国の一部分」だとする主張を行っていたが、北京政権時代は「軍閥の混戦」、南京国民政府時代は対日戦争への対応におわれ、独立を主張するチベットに対し圧力をかけ続けていたものの、本格的な軍事行動は行なわなかった。
第二次世界大戦中はチベット政府は日本に同情的な立場から、羊毛を経済制裁で苦しむ日本へ輸出し、連合国側の補給路確保要請もチベットは中立を通し拒否した。しかし後に米英ソの後ろ盾で日本に対抗した中国が国連の常任理事国になった事で、後に中国によるチベット侵攻は国連で議論されなくなる。
1949年に国共内戦に勝利して、無宗教の社会主義国家中華人民共和国を樹立した中国共産党は、「チベットは中国の一部分」として、チベット全土の「解放」を目指して1950年に中国人民解放軍による軍事行動を発動しチベットを軍事制圧し、17ヶ条協定により、チベットの主権を奪った。(「帝国主義侵略勢力のチベットにおける影響を順調に一掃して、中華人民共和国の領土と主権の統一を完成し(十七か条協定の序文より)」)
その後、チベット亡命政府は中国共産党政府はチベットに住む人々に対する非常に残忍な弾圧や虐殺を繰り返し行なう事でチベットを抑圧支配し続けている。
◇ チベット動乱
清末以来、反清、反中闘争を続けてきたカム地方の人々は、翌1956年より武装蜂起を開始、一時的には中華人民共和国の軍事警察機関の一掃に成功する。チベット動乱の勃発である。カム人民の抗中蜂起に対し、中国人民解放軍はただちに反撃を開始、戦火を避ける民衆や敗走する抗中ゲリラたちは、雪崩をうって、まだガンデンポタンの統治下で平穏を保っていた「西蔵」へ逃げ込んだ。
カム地方出身の抗中ゲリラたちは、この地で初めて統一組織「チュシガンドゥク」を結成、1957年からはアメリカのCIAの支援も受けたが、故郷奪回に乗り出す力はなかったので、「西蔵」内の各地で人民解放軍の駐屯地や中華人民共和国の行政機関を襲撃する武力活動を展開した。
このような情勢の悪化に対し、ガンデンポタンは、抗中ゲリラによる政府保有の武器や食料の提供要求を拒否するなど、十七か条協定の枠組みを維持することで、かろうじて確保された「自治」をまもろうとつとめたが、1959年には事態は一層悪化、人民解放軍のダライ・ラマ14世に対する観劇招待を、ダライ・ラマ拉致の口実と疑ったラサ市民が夏の宮殿ノルブリンカ前に集結、人民解放軍による解散要求と砲撃など、混乱の中、ダライ・ラマ14世はラサを脱出した。
中国の国務院総理周恩来は「西蔵地方政府」の解散を布告、これに対しダライ・ラマ14世は、国境を越える直前に「チベット臨時政府」の樹立を宣言し、インドへと亡命した。
中国によるチベット政府の行政機構や正規軍の解体と支配体制の樹立は1960年ごろまでにほぼ完了した。カム地方の出身者を中心に結成された抗中ゲリラチュシ・ガンドゥクによる武力抵抗は、ネパール領のムスタンを拠点とし、そこからチベット各地に出撃する形で引き続き展開された。
しかし米中国交回復にともない1972年に米国からの支援が停止、1974年、ネパール政府はムスタン基地を包囲して、抗中ゲリラに武装解除と解散を迫った。抗中ゲリラはダライラマの玉音テープを携えたチベット亡命政府の使者の説得に応じて武装解除してムスタンより退去、抗中武力抵抗はここに終焉を迎えた。
チベット動乱にともない最高指導者ダライ・ラマ14世、政府ガンデンポタンのメンバーらをはじめ多くの僧侶や一般農牧民たちがインドなどに亡命、十数万人から成る亡命チベット人社会を形成するにいたる。
1959年~1961年にかけヒマラヤ山脈の西方、および東方の二カ所において人民解放軍とインド軍の武力衝突が発生した。
戦闘は、装備に勝る人民解放軍がインド軍を破って前進したのち、人民解放軍は、西部ではアクサイチン地区をそのまま確保、しかしソビエト連邦やアメリカなどの国際社会からの圧力を受けて東部ではインド側が国境として主張するマクマホンラインまで撤退する形で収束した(中印国境紛争)。
1965年に、西蔵自治区が成立。中国全土で数千万の死者を出したと言われる文化大革命期には極左の紅衛兵によって多くの寺院が破壊されるなど、文化遺産に深刻な被害が出た。さらに人民公社の導入など、中華人民共和国との一体化が進んだ。
漢人の移民を故意に実行し現在ではチベットにおける漢人とチベット人の人口比率は逆転している。
◇大量殺戮
チベット亡命政府は、中華人民共和国が建国(1949)から文革(1979)の終結までにチベットの全土で虐殺された人数の総計について、120万人をあげた時期もあったが現在は、地方や時期別に、
1952年-1958年における「カンロ地区」(中国の区分で甘粛省甘南州)において10000人
アムド地方ゴロク地区(中国の区分で青海省果洛州)で1956年に130,000人あった人口が1963年に「およそ60,000人にまで減った」と指摘
1959年3月10日に勃発したラサ蜂起では三日間で10000人-15000人のラサ市民が死亡
「人民解放軍チベット軍区政治委員会による1960年の秘密文書」による、として1959年3月から1960年10月までの間に中央チベットだけで87000人のチベット人が殺害された。
カム地方における「反乱」と「鎮圧」 1957年-58年。第2次蜂起(バタン(巴塘)、維西、徳欽、中甸)。1958末に「平定」に成功。5,500人を「殲滅」。
「青海省」における「反乱」と「鎮圧」 1958年3月-8月、甘粛から青海にかけての42万平方キロにかけて130,000人が参加する「反乱」、うち110,000人を「殲滅」して平定。
「青海省」におけるチベット人・モンゴル人の遊牧民50,000人(総人口の10%)を逮捕 逮捕者の84%、45,000人が誤認逮捕。拘留中に23,260人が死亡、誤って殺害されたものが173人。宗教・民族分子259人、民族幹部480人が死亡。
中央チベットにおける「殲滅」の規模 1959年3月から62年3月までに死亡・負傷・捕虜を含めて93,000人を殲滅、武器35,500丁、砲70問を鹵獲。
◆ウイグル・東トルキスタンの場合
辛亥革命の後、清朝の版図を引き継いだ中華民国に属しながらも、漢民族の省主席によって半独立的な領域支配が行われた。
これに対して1933年と1944年の二度にわたって土着のムスリム(イスラム教徒)によって民族国家東トルキスタン共和国の建国がはかられたが、国共内戦後の1949年に再び共産党支配下の中国に統一され、1955年に新疆ウイグル自治区が設置された。
しかし、直後に開始された大躍進政策とその影響による飢饉のため、中国全土で数千万人ともいわれる、大規模な死者を生み出した。自治区の経済及び住民生活も大打撃を受けた。1962年には、中国共産党による支配に絶望した国境地帯の住民7万人以上がソ連領内に逃亡した。
文化大革命が終結し、言論統制の緩和がなされた1980年代には、ウイグル族住民の中で、新疆ウイグル自治区における民族自治の拡大をもとめるうごきがみられた。
また、海外の汎トルコ主義者が独立を主張する動きがみられた。しかしこのような動きを中国政府はきびしくとりしまっている。
中国共産党政府はウイグル人の暮らすウイグル地区のロプノルで、1964年から1996年にかけて、地表、空中、地下で延べ46回、総爆発エネルギー20メガトンの核爆発実験を行っている。そのため、住民に深刻な被害を与えているといわれている。
2009年にはウイグル人と漢民族の対立が激化し、ウイグル騒乱が発生。武装警察の介入もあって、世界ウイグル会議によると死者800人、中国当局によると死者156人となる惨事となった。
◇核実験のモルモット
新疆ウイグル自治区ではロプノール核実験場の付近を中心に、1964年から46回の中国による核実験が行われており、放射能汚染による地域住民の健康状態や、農作物への被害が指摘されている。高田純は同地域の調査をし、19万人が死亡しており、健康被害者は129万人と主張している。
以上
こんな中国と友好関係を続けている日本政府って、何なの!?
魂を売ってるとしか思えない。
社会的道義や武士道精神はもうないのかい
?
中国に媚びるように付き合ってる日本だが、その中国に、でたらめな南京大虐殺を捏造され、日本の名誉を甚だしくおとしめられ、中国国内ばかりか、日本国内にも反日分子を培養せしめている。
それに対し、追い込められ八方塞がりの戦時中の日本に、最後まで義理堅く接してくれた国がチベットだった。
今の日本は戦前を否定し過ぎて、道義も理念も、誇り高き精神も忘れてしまっている。