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《…池上を射殺した牛場軍曹の供述。


「自分は、部下と二人で、歩けなくなった池上のそばに残った。
自決をすすめたが、いやだ、と拒絶された。

池上はいいやつだったが、歩きもしない、自決もしないでは、切りがつかない。
日が暮れかかったので後ろから自分が撃った。

二人は遺骨用の手首を切り落とすと、逃げるようにそこを立ち去ったが、夜の山中を三時間歩いて、ふと気づいたら、池上の死体のそばに立っていた。
その時の恐ろしかったこと…

自分たちは本隊を追及しているつもりで、池上の死体の周辺をぐるぐる回っていたらしい。」》



死亡記録は、久保一等兵(元教師)、池上上等兵は八月二十七日、ワヨゴンにおいてマラリアのため「戦病死」






牟田口司令官の暴走により、まだ雨将軍が来る前のチィンドン河を越え「烈」、「祭」が本作戦に突入したのが昭和十九年三月十五日…。



黒岩上等兵が所属するのは、第十五軍「独立輜重兵第二連隊第三中隊」で、アラカン山系中、烈兵団に物資を届ける山岳輸送隊です。



しかし五月を過ぎれば、雨期に入り、河は氾濫、道は冠水し、トラック輸送ができず、兵站が完全に途絶してしまいます。



六月十四日
いくさ敗れし飢餓状態の「烈」が、兵站地ウクルルへ向けての退却のさい、
「傷つき病んだ兵を見捨ててはいけぬ、万難を排して運んでやってくれんか」と、
やがて更迭される佐藤幸徳中将直々の懇願により、コヒマからの約四百五十名の負傷、病兵の担架輸送が、山岳輸送隊により開始されます。



六月二十九日、連隊からの使者が来る…。

ようやく任務を完了し、輸送中隊の退却にあたり、本戦記によれば、担ぐ者が疲労困憊し、倒れてしまうという理由から

「これより担架輸送を禁止す、よって歩けぬ者は自決せよ」

との命令が響き渡ります。
(ただし士官は担架輸送された)

そしてこの日を境にして、餓えたる兵隊たちは皆、助け合いの精神や戦友愛を振りほどき、ひたすら敵軍と死神の「落伍者は死すべし」の声から追われる行軍が始まります。

(この自決命令が下るのを時同じくして、前線の野戦病院もまた撤退の際に、自力で歩けぬ兵は捕虜防止のため処理された?)



八月不明
《山鳩の不吉な鳴き声が聞こえてくる。

また前を歩く兵が倒れた。

心をよぎるのは一瞬で、すぐ忘却の人となってしまう…》







中隊下級兵士の死亡者内訳は以下の通り。

《私の同期生、昭和十七年入隊の兵が作戦参加者百四十三名中、百七名が死亡。
十八年入隊の兵は、三十名中、二十七名が死亡。

十九年入隊の新兵は、百五十六名中、実に百四十七名が死亡した。》

中隊死亡率、約九割が下級兵士でした。




止まない雨はないと言いますが、白い骨を濡らして、今もビルマの雨は降り続いています。




《》内、黒岩正幸『自決命令』より





 
 
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『自決命令~インパール兵隊戦記』

 著 黒岩 正幸

  光人社


古参兵は久保一等兵に言った。

《「おい久保、甘ったれるんじゃねぇ、歩けなければ自決しろ」

「あすの朝になれば、きっと歩けますから、自分を妻子のもとへ帰らせて下さい」

「未練がましいことを言うな、お前の家には、立派に死んだとオレが伝えてやるから、日本軍人らしく早く死ね」

「いやです、内地へ帰るんだ、自決は絶対にしません」

「この野郎ふざけやがって、自分で出来なきゃ、オレが撃ち殺してやる」

銃口が向けられた。

「撃たないでくれ、一日待ってくれぇ」

額を地面にこすりつけ、哀願したのに…銃声がとどろいた。

「お前は、先生を殺すのかぁ」

久保は悲痛な声をあげて、息絶えたという。
久保一等兵は召集兵で、内地では青年学校の教師をしていた。

赤井上等兵は、志願兵として入隊する十八才まで、その教え子であった。》

《》内引用

かなり衝撃的な体験や見聞があります。


インパール作戦撤退における「戦病死」に隠された残酷な真実、生還できない下級兵士(初年兵、二年兵)のわけとは…。


本戦記はマラリア、赤痢、飢餓などに冒された落伍者、歩行不能者がいかに非情な宣告を受け、いかに軍から家畜のように自決処理されていったかを克明に記し、ひたすら家族を想い、望郷を抱きつつ無念な死を遂げていった悲しき下級兵士たちに捧げる鎮魂の書であります。



インパール作戦についてウィキペディアによれば…

「結果として本作戦は日本軍参加将兵約8万6千人のうち戦死者3万2千人余り、戦病者は4万人以上(そのほとんどが餓死者であった)を出して7月1日に中止された。」

とあるだけで、自決死者についての記載はなしでした。

「戦病死」と認定されてしまった多数の自決または自決強要、銃殺、毒殺により死んだ兵士たち…。


そして本書のように貴重な証言などがあるにもかかわらず、「戦病死」がいまだに放置されているようです。


決して「死人に口なし」であってはならないと語る、地獄を見てきた生き残り兵士の嘆きが、胸の奥まで響いてきます。




 
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『烈兵団インパール戦記』

 著 斎藤 政治

光人社NF文庫



《斎藤軍曹以下八名はすみやかに前進、コヒマ西北方8マイル地点のズブサ橋梁を爆破し、敵補給路を遮断すべし》の命を受け、敵領域に潜入し目的地に到着した斎藤隊長らは、爆破目標とそれに延びる道路を見てア然と言葉を失います。
なぜなら指令情報とあまりにも規模が違いすぎていたからです。

道幅10Mのアスファルトで舗装された道路、その上を轟々と流れるトラック群や軍用車両の圧倒的補給量、そして「木橋」と聞かされた肝心の標的は二条に架け並ぶ頑丈に造られた鉄橋…だったのです。

橋を爆破するための火薬がまったく足りず、斎藤軍曹は止むなく応援要請の伝令を出しますが…。






英印軍が用意周到に道路整備を行い、補給こそ重要な戦略であると位置付け、飛行機やトラック輸送による効率的かつ万全な補給に対して、かたや日本軍は峻厳アラカンの山岳路に頼みの牛馬すらいき倒れ、もっぱら人力によるものでしたから、その物量差は途方もなく歴然としていました。



《全員が一丸となっての臂力搬送は、さながらお祭りのミコシの観を程した。分解をした砲身、車輪などの部分を何人かでかつぎ上げる。
そして勇ましいかけ声をかけるのだ。
ワッショイ、ワッショイ~。
(中略)
これら山砲隊の苦労をみるとき、私は合掌したいほどの感動にとらわれていた。

輜重兵の苦労ぶりも、特筆に価しよう。背負子に小さいが重そうなものを担う何名かの老兵の一団をを見た。

「ご苦労さんです。重そうですが何ですか?」と問う私に、
「こりゃ、山砲の弾丸だんな、しんどいこってす、わいらこの弾丸を一発ずつ背負うと、次の集積所まで行くんやさかい、ほんまにしんどいですわ」
(中略)

だが、一発の弾丸をチンドウィン河畔からリレー式に、老輜重兵のおっさん連が背負子に背負ってコヒマまで着くには、じつに二十数日を要することになる。》
《》内本文抜粋


アリ対ゾウのような無謀な戦いであることや、百日ばかり後には退却するハメになるとは、まだ知らない日本兵の涙ぐましい頑張りと労苦を思えば、「ワッショイ、ワッショイ」のかけ声も、なにか切なく聞こえてきます。