フルトヴェングラー/映画『ドン・ジョヴァンニ』(1954年) | 弦楽器工房Watanabe・店主のブログ

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〇モーツァルト:歌劇『ドン・ジョヴァンニ』全曲(映画版)

チェーザレ・シエピ(バス:ドン・ジョヴァンニ)
リーザ・デラ=カーサ(ソプラノ:ドンナ・エルヴィーラ)
エリザベート・グリュンマー(ソプラノ:ドンナ・アンナ)
アントン・デルモータ(テノール:ドン・オッターヴィオ)
オットー・エーデルマン(バス:レポレロ)
エルナ・ベルガー(ソプラノ:ツェルリーナ)
ワルター・ベリー(バス:マゼット)
デジュー・エルンスター(バス:騎士長)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:ウィルヘルム・フルトヴェングラー
演出:ヘルベルト・グラーフ
制作・監督:パウル・ツィンナー
制作:1954年 ザルツブルク
発売:ユニバーサルミュージック
唯一カラーで残されたフルトヴェングラーの指揮姿(登場は序曲のみ)。
カラヤン指揮の『バラの騎士』(1960年)と並ぶ記念碑的な音楽映画。こちらは世界初のカラーフィルムによるオペラ全曲映画となったもので、もちろん『ドン・ジョヴァンニ』の史上初の映像記録でもあります。
(前回取り上げた1954年実況盤とは別演奏。ドンナ・エルヴィーラ役のシュワルツコップがデラ=カーサに交代している)。

録音データの詳細は不明ですが、ザルツブルク音楽祭の期間中、メイン会場のフェルゼンライトシューレを借り切ってこのような手の込んだ撮影が出来るとは考えられない。おそらく公演が終了する8月下旬に音声を収録し、その後で上演時のセットを使って舞台を撮影したものと推測されます。
しかし、一応は音楽祭の上演記録という体裁を取っているため、グラモフォンのDVDには「1954年10月、ザルツブルク音楽祭における収録」とだけ書かれています。10月にザルツブルク音楽祭とは奇妙な話ですが、通常、音声と映像を別録りした作品ではそれぞれの日付は公表しないことが多い。要は54年の夏以降に、音楽祭のメンバーで録音と撮影を個別におこない、その編集作業(あるいは撮影も)が10月頃まで続いたという意味に取ればいいでしょう。
以下、私見を幾つか。
※フルトヴェングラー指揮による演奏は、全て非公式で行われたものと思われる(会場は本番上演時と同じフェルゼンライトシューレでしょう)。これは、幕間の拍手や客席の雑音が無いこと、演奏の雰囲気に彼のライヴ特有の興奮がなく精緻な表現が目指されていること、マイク・バランスが比較的一定していること、などの理由から説明できる。
※チェンバロ伴奏によるレチタティーヴォの部分だけは映像と同時収録。声や足音が演者の所作と完全に同期している。そしてアリアからレチタティーヴォに移行する時と、再びアリアが始まる時には決まって画面が切り替わる。この切り替えの度にマイクの感度が変化しているのが確認できる。
※では、上に掲載したフルトヴェングラーを撮った序曲はどうか。彼の唯一のカラー映像だけに音声と同時の収録だと思いたいが、フレームに入っている楽員が二人ではちょっと判別しがたい。
※万雷の拍手で指揮者を迎えた聴衆は、おそらくその場には居なかった。拍手の中をフルトヴェングラーが登場してから棒を振り下ろすまでの間、映像の切れ目はないが、ボリュームを上げると第一音の直前で音声が繋ぎ合わされているのが分かる。序曲から終曲まで、レチタティーヴォを除いては普通のレコーディングのように音の吹き込みに専心したのだと思う。
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このように見て来ると、本作の演奏自体は殆どスタジオ録音に近い性格を持っていると言えます。『ドン・ジョヴァンニ』に限らず、フルトヴェングラーのモーツァルトのオペラは実況録音ばかりなので、映画のサウンドトラックだけでも貴重極まる記録ということになる。音質が安定していて、音楽づくりは非常に端正で品格に満ちている。実際、ウィーン・フィルと言えども、絃の静寂な美しさをこれほど気負わず、自然に表出した例は稀でしょう。

舞台のセットと衣装は、品の良いオーストリアの伝統を感じさせ、また相当に豪華なもの。色彩感が豊かで美しい映像です。カメラが適度に役者から離れているのは、大画面での上映を前提にした映画だからでしょうが、結果、人間の細かな表情や仕草よりも、身体の演技と背景のセットが印象に残りやすくなる。アップの多い最近のオペラ映像に比べ、実際の舞台を見る感覚に近いと言えるかも知れません。
シエピ、エーデルマン、ベルガーといった歌手たちは、もちろんレコードの声だけで十分に人を惹き付けはしますが、ヨーロッパでは先ず一流の歌劇場の役者として名が通っていたわけで、本来は音盤だけでその芸術性を云々するのは間違っているでしょう。仮にこういう優れたオペラの映像記録が幾つも残っていたなら、往年の巨匠指揮者についても、より多面的な評価が可能になるはずです。無いものを欲しがるのは無意味でしょうが、彼らは断じて、ベートーヴェンやブラームスのシンフォニーが巧者に振れるだけで一流の評価を得た訳ではない。フルトヴェングラー、ワルター、トスカニーニ、カラヤン。大指揮者各人の年譜を辿ると、彼らが歴史的な成功を収めたのは決まってオペラの仕事においてだという事に気付く。この分野で、巨匠と名門楽団が精魂を傾けてきた歴史は、日本でももっと重く受け止められてよいと私は思います。

全曲の動画