At first this was challenging because publicly available data sets from the original study were incomplete and poorly labeled. But once Park’s team members had gathered enough data, they were able to determine in less than a month that the initial studies were problematic.

上記の文章ですが、onceの意味ですが、“以前に”の意味がありますね。また、続きの文章は過去完了形になっています。この意味ですが、遺伝子データが公開された以前に、パークらのチームが遺伝子の十分データを得ていたので、(公開データ後?)1か月以内に解析したという意味にとれます。
 
すなわち、過去完了形を考慮すると、公開遺伝子が出る前、すでに解析が可能となる遺伝子データがパークらのチームに漏れていたとの推論が出てきます。
もちろん、推論ですので、証拠はありません。この英文からはそのように読めないか?の問題提起です。

また、これは記者が書いたもののようですので、何か勘違いですと言われてしまえば、それまでですけど・・・。
 
HMSニュースの以下の部分もやや気になる書きぶりです。
以下の英文は、正しい遺伝子データを適切な時期に公開データベースにアップする事を、雑誌編集部は推進すべきと言っています。
STAPではその原則が行われていなかったと言っているのでしょう。つまり、STAP論文では、正しくない遺伝子データが適切でない時期にアップされていたと言いたいのでしょう。必ずしも再発を防げるものではないが、実行可能なセーフガードになると言っています。

“At the very least, journals should enforce proper annotation and timely deposition of datasets into public databases,” said Park. “It won’t prevent this sort of thing from ever happening again, but it is an easily attainable safeguard.”
 
論文発表後のたったの1週間での、有名科学者からの連名の抗議メイルがありました。
この時、小保方氏は、CDBセンター長の竹市氏に呼ばれているのですが、センター長の部屋には、肺魚がゆらゆらと泳いでいたと「あの日」に書かれています。
この文章から、小保方氏は呼ばれた理由を察知して、覚悟もできていたかのような印象を受けます。
彼女は、「あの日」に、”だから大変なことになるって言ったじゃないですか”とも言っています。
 
分子生物学会の大騒ぎぶりからして、日本では論文発表前に遺伝子データが洩れていた可能性が高いと、本ブログで言っています。当然、これに対する批判は免れません。推測でものを言うな!とのおしかりがあります。
しかし、「ねつ造の科学者」の多くの記載部分において、マスコミへの事前漏れを疑わせます。
 
{ねつ造の科学者}70頁に、STAP細胞がESだったかもしれない可能性を、(須田氏が)研究者(若山氏)の口から直接聞いたのは、これが初めてであったと書かれています。
3月9日と、若山氏が論文撤回を呼びかけた日です。
 
いずれにしろ、早い時点で、マスコミ人は、ES細胞の情報を入手できる立場にいました。
それは日経サイエンスの著者である詫摩氏も同様です。
以前にも書きましたが、2月6日、論文発表から1週間で、若山氏は詫摩氏を山梨に呼んで語っています。
「今回、僕はマウスをつくるテクニシャンだった。なのにコレスポにしてもらって申し訳ない気がする」
などと発言したことが、日経サイエンス2015年に載っています。
若山氏は、STAP論文に対する責任を放棄した決意をマスコミに披露したかったのかもしれません。
 
すでに若山氏は、論文発表前から、論文撤退の姿勢を示しています。
画像をそのまま説明なしに小保方氏に渡したり、アーティクル論文に幹細胞の記述も加わることを黙認しています。
このあたりの若山氏の心境は伺い知ることができませんが、若山氏、小保方氏の関係は冷えた関係だったと思いますが、それでもお互いに相手の立場を配慮して、だまっていたのかもしれません。
 
実際に、STAP論文発表の華やかな記者会見の席に、若山氏は共著者として出席しています。
この時、若山氏と小保方氏で、交わした会話が、「思ったより人が多いね」とか「発表良かったね」とのことでした。
本当は、発表前に、もっともっと、二人で議論すべきことが山ほどありました。
小保方氏はそうしたかったと思います。
両者にとって、大変不幸な成り行きだったのは間違いありません。
 
こうした著者不在による論文が世にでた結果、小保方氏がその責任追及の矢面に立たされました、一方、若山氏は論文の守るのではなく、追及する立場になりました。そして論文の複数の箇所の問題点をマスコミに暴露しました。
 
小保方氏は、自身のデータではない幹細胞実験を、アーティクル論文に組み込むことのつらさを「あの日」に書いています。リバイス論文のために、幹細胞を培養し直したり、GRASと交渉したりは、小保方氏にとって、孤独でつらい作業だったと思います。