ねつ造の科学者}では、笹井氏の自殺について、第11章でふれている。

 
笹井氏は、家族への遺書で、「マスコミなどからの不当なバッシング、理研や研究室への責任から疲れ切ってしまった。と書かれていた。この遺言はこの{ねつ造の科学者}でも紹介されている。
 
このコメントに対する須田氏の謝罪じみたコメントは無い。
笹井氏のマスコミへの抗議に対しては、須田氏の感想は、「笹井氏の死は防げたのではないか」の記述で受け止めている。
 
{ねつ造の科学者}には、笹井氏は何度も登場する。
多くは、須田氏からのメイルに対する笹井氏からの返信であるが、かなりフレンドリー、かつ丁寧に答えている。
 
{ねつ造の科学者}の知識不足で、見当はずれで、無礼な須田氏のメイル文章に対しても、笹井氏はまじめに向き合って返信している。
 
笹井氏は、拡声器としてのマスコミを大事にしているだろうから、偉いなあーと感じる。
さらに、笹井氏はマスコミを教育することで、報道内容の質も向上してほしいとの親心もあるのだろう。
サービス精神旺盛なのだ。
 
笹井氏は、内心は、須田氏はわかっていないなあー、ひどいなーとメイルにあきれづづ、現時点の彼女のレベルでは、理解させるのは無理だろうなあー、と感じながらも、向上を期待して返信していたであろう。
 
須田氏の文章の後ろには、“悪口を吹き込む学者がいる“と、笹井氏も苦笑ものだったろう。
しかし、笹井氏は、須田氏のこうした問題点は指摘せず、丁寧に返信していたようだ。
だからこそ、笹井氏の本心を須田氏は理解できないままで過ぎてしまったのだと思う。
 
須田氏は、笹井井の不幸に際して、“やるせなさ”を感じたと書いている。
“やるせなさ”は、感情としてあいまいと感じる。
とらえどころのない感情を書くのか、他に言い方は無かったのか?と言いたくなる。
 
須田氏も当然、笹井氏の死にはストレートにショックを受けたであろうし、自らの取材攻勢が影響したと思ったであろう。しかし、できるだけ、そう思わないようにしたのではないだろうか?
 
須田氏は、「私のせいじゃない!私のせいじゃない! 私は記者としてやるべきことを追ったまで・・・!」と、須田氏は、彼女自身を正当化し、かつ、鼓舞したかもしれない。
 
こうした感情は、その時は乗り切れても、後で何年も経ってから、思い出してつらくなる種類のものではないかと思う。マスコミ人であっても、マスコミ業務から離れると、一般人の感覚がよみがえるような気がする。
 
今後の須田氏は、サイエンスライターとして活躍したくても、学者たちから敬遠されるであろう。
須田氏が四面楚歌の環境になって初めて、自らの行動の問題点に気づくようになるのかもしれない。
 
須田氏は、知らないことをまるで知っているかのように書き、判断できないことを判断できるような気持ちになってしまった。須田氏は自分自身が優秀だからこそ!と思ってしまった。
 
知ったかぶりにも抵抗を無くし、自らが専門家にようにジャッジできると思い上がってしまった。
吹き込まれたことを信じて、自分の意見のように書いてしまうのは、一種の“嘘”だろう。
つまり、須田氏はそんな自分に気づいたら、小保方批判などできないだろうけど・・・。
 
須田は今後、この問題点に気づくことになるだろうが、一度出回ってしまった書籍は、もう決して回収することはできない・・・。
 
若い女性は怖いもの知らずでも世の中が通る。その活躍は女子力として、マスコミはちやほやする。
しかし、その実態は、しばしば中空である。
 
今回のSTAP事件は、潰そうとする学者たちが、バラエティーに富んで須田氏の周りに登場する。
学者たちが須田氏に情報を流せば、全国レベルの記事にしてくれた。
こうしたSTAPを潰そうとする人たちは、経験の少ない女性記者たちをだますのである。

賢い学者たちは、自らは一方的な見方をしていることを自覚しつつ、フェアな人であると装うことができる。他人にうまく話をして、公正な意見であるかのように説得する。こうした話に乗ってくるのは、背伸びをしたがる、誘導されやすい女性が多い。こうした人たちを意のままに動かすのが楽しいのであろう。

小保方氏が研究していたバカンティ研は、病院の中にある小規模研究室である。
こうした大学付属病院で再生医療を研究する医師の元には、治療法のない病気が持ち込まれることがある。
患者さんの了解を取り、要望があれば問題ある治療が時に行われることもあるだろう。」
 
目のまえの困った人を前に、臨床医がエイヤア!の治療をすることがある。たとえ、治療に問題あっても、実施されることがある。
しかし、医療の平等が行き届いている日本では、社会の反発も強く、基礎の学者からも攻撃が強い。
日本には、保険やお金が無くて医療にアクセスできない人というのが存在しない。
 
新規の治療につながる研究には、人々の期待が大きく予算がつくのである。
政治家がからみ、難病患者たちが希望を持つ。
しかし、基礎学者は、問題点をたらたらと批判する。
医学の基礎系と臨床系では、両者の間に昔から確執が大きい。
 
基礎学者は、臨床医の研究をけなす傾向がある。そんないいかげんな研究では、世の中に役立たないと言う。基礎学者は、臨床医の展望や希望が理解できないし、臨床医学は急に進むことがあることも見通さない。
つまり、追及したら本筋はだめだったが、副次的な発見があったなどの、ひょうたんから駒的進歩もある。
基礎学者は、懸念したがる人々であるが、その懸念の方向性がズレていく。
 
こうした基礎学者特有の視点も、今回のSTAP事件の発生に関係していると思う。
もちろん、バランスの良い考え方をする基礎学者もいる。基本的にこちらの人の方が多いだろう。
医学の事件に限らず、偏った人間がたまたま複数で集まってしまうととんでもない事件は起きてくるような気がする。
 
基礎と臨床の対立する現場の実態が、{ねつ造の科学者}で見れることは興味深い。
書かれている文章を紹介しよう。
以下は、笹井の予算獲得力に対する批判だ。青字
 
設立から10年以上が経ち、発生生物学のピークを過ぎてもなぜ、CDBが巨大な予算を獲得できていたかというと、再生医療のけん引役という看板があったからで、これはある意味で嘘に近い」
「そういう実態との違い作ったと言う点では、笹井さんも西川さんの次に責任が重いし、竹市さんもそれにのっかったわけです。」

「小保方さんならともかく、笹井さんレベルの人が、基礎の基礎といえるネズミの成果で難病の患者さんにも期待を持たせるようなことをいったのにはあきれた」
と振り返り、こう続けた。

「・・・・予算を獲得するためにうまく立ち回り、誇大広告的なアピールをするのは、一時的にその人の組織にメリットをもたらしても、学問、社会、国民、経済にとっては逆に働く。日本の科学の根幹的におかしなところが、氷山の一角として表れてしまったのではないか?