今、芸大で夏目漱石の芸術論に関連する美術展が開かれている。夏目は、“吾輩は猫である”、三四郎などの小説の中に、ヨーロッパの絵画を紹介し、論評している。


今回の美術展は、夏目の小説の文章と、そこに引用された芸術作品が、共に平行して展示されている。


この時代、日本の油絵は、芸大を中心に洋画家が活躍し始めた時代であった。当時、国は、西洋芸術、西洋文学に大きな予算をかけて、支援していた。夏目もそうした超エリートの一人だった。


しかし、夏目は、知識をひけらかすエリートたちを、“吾輩は猫である”の中で、痛烈に批判している。
この本が売れた時代背景は、超エリートだけではなく、一般知識人が台頭しつつあったろう。

当時の人々は、欧米の文化に憧れ、貪欲にその知識を求め始めと思われる。こうした多様な知識人の共感を呼び、小説は大評判になったのであろう。“吾輩は猫である”は、西洋絵画を難しく解説するのではなく、猫の目をとおして、平易な文章を用いて、西洋文化を、解説紹介してくれているのである。


夏目の小説には、登場人物として黒田清輝、和田栄作をモデルに書かれた部分があるとの解説があった。夏目は、つきあっていた超エリートたちを、小説の中に登場させて、芸術家の生の姿を描いている。


その後も夏目は、当時の美術作品についてさまざまに論評している。


私はその中で、和田栄作の油絵と、それに対する夏目の論評について興味を感じた。文豪と言えども、女性の気持への理解は十分でないな?と感じたからである。女性が本音を口に出して言わない時代背景だからこそ、男性は女性の心を把握できないだろう・・と思うのである。


夏目が論評した和田の絵は、上流階級の和服姿の女性が、窓辺で物思いにふけっている作品である。タイトルは、H夫人の肖像となっている。そして、この絵の隣に平行して、夏目の論評がある。

結論として、夏目は、この絵は画面が暗く好きでないと言っている。そして、なによりもモデルの表情が暗く、うけいれがたいと言っている。

この女性は肖像画を描かれることを快く思っていないのではないかと推測している。むりやりモデルになっているようだと言っている。なぜ、画家は、このような絵を描くのかというのが、夏目の印象である。

確かに、夏目の言うように、全体の画面がすこぶる暗い。女性は、暗がりの中で沈み込んでいる。しかし、窓辺の背景は、豪勢である。窓辺の洋風の細工や、掛けられた重厚なカーテンは、この家が特別の豪壮な洋館であることを物語っている。そこに座る女性は、やはり超エリート夫人であるだろう。



女性は、今までの人生経験を通じて、自分自身を失い、覇気を無くしている。


その画面からは、「わたしの人生って、なんだったのだろうか?」との声が、聞こえてくるようである。


大事な実子の息子が戦場に行ったのか?
夫の度重なる浮気がつらいのか?
外に何人も子どもがいて、そちらの子に夫の期待が大きいのか?
愛人の子どもが家督を継ぎそうになっているのか?
家の中の自分の立場が侵されそうになっていても、自分自身では、何の手も打てないと感じているのであろう
か?


などなど、この女性は、名家であるが故の、大きな悩みをかかえているような気がする。そして、その悩みを、夫や他人にこぼせず、内に我慢するしかない。


夫の死後、歳をとった女性が、家庭内で立場が低くなるような事態は耐えられないことだったと思う。女性が名家から嫁いだとするなら、なおさら、感じるところは大きいであろう。


女性は、そんな自分自身をなさけないと思いながら、行動できないでいるようだ。


一方、裕福な暮らしをさせてやってると考える夫の立場からすると、女性の気持ちは理解しがたいところだろう。当時の超エリート男性たちは、多く浮気をしており、それが当たり前だとの認識でいたであろう。


そんな、富と特権の中で落ち込む女性の表情は、画家の心をとらえたと思う。
和田栄作自身も超エリートであったし、親交のあったエリートたちの妻たちの落ち込む姿を、何度となく観察していたではないだろうか。そして、和田は、絵心を刺激されたのではないか?
才能ある画家なら、人の心を描きたいと思うであろう。


超エリートのいなくなった現代ではあるが、中年すぎての女性の悩みは、今も同じようにある。「わたしの人生って、なんだったのだろうか?」である。


今なら、更年期障害ということになろうか?何もやる気がしない、疲れてしかたないとする精神状態である。
それは、女性ホルモンの低下とかではない。決して、不幸なわけではないのだが、そこを忘れて、それまでの生きざまから感じる迷いと後悔の念が、更年期障害ではないのか?と思う。