奈良再訪 5 高畑、奈良町カフェ巡り | 楽典詩人

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高畑の町のカフェ「ろくさろん」が閉まっていたので仕方なく西方向にゆるやかな坂を下りました。

そうすると、住宅の塀に見たことのある形状のものがいくつかありました。

 

高畑の昔からの住宅は築地塀が多かったような気がしますが、新しいものには奈良特有の楽人長屋の塀を模したものがありました。

これは、江戸時代に春日大社雅楽を奏する楽人たちの住宅を囲んでいた塀を言います。

つまり、楽器の演奏をするために外部の音が中に入らず、中の音が外に漏れないようにするための塀とのことでした。私が奈良にいたころにはすでに実物の楽人長屋はなくなっていましたが、その塀だけ再現したものがどこかにあって見たことがありました。

通りがかりの道にあったこの写真の塀は、楽人長屋の塀に見えますが、音が入らない、漏れないどころか武装集団の侵入も防ぎそうな重厚感がありました。

 

この道を下ってバス通りまで出ると、そこは私が毎日利用していた破石(わりいし)のバス停です。このバス停の近くに当時よく行ったカフェがありました。

カフェの奥さんが美しいフランス人(勿論日本人と結婚して日本国籍がありました)でカフェの名がその奥さんの名前になっていました。そのご主人が声楽家で、時々その店でリサイタルをしていました。

行ってみると、営業していたので店に入ってランチを食べました。

私以外に一組だけ客がいました。調理と配膳はその奥さんともう一人年配の日本人の女性がやっていました。

その二人が目の前の厨房で、30年前に来てくれていたお客さんが来てくれたと話していたので

「私もその向こうに住んでいたので20年前によく来ていました」というと、奥さんが私の顔を見て「何となく覚えがあります」と言ってくれた。

そこで、「声楽家のご主人はお元気ですか」ときくと「9年前に亡くなりました」とのことでした。

そこで彼女が言ったのは、「当時は子育てのために夫婦が店を昼の部と夜の部に役割分担していた」ので、私は夜の部のご主人のお客という位置付けだったようです。確かに、私は昼間は仕事で高畑を離れていて、夜戻ってきてご主人相手に飲んでいたなと思いだします。

 

東京に戻った後も何度も奈良には来たのですが、なぜだかこの店に立ち寄らなかったのでご主人が亡くなったのも知らなかったのです。この日もろくさろんが営業していたら立ち寄らなかったことでしょう。

 

高畑の町からもう一度奈良町に行ってみることにしました。前日行って営業していなかった「蔵部D」に行ってみようと思ったのです。

庚申堂近くにある店まで行ってみると、古民家の入り口あたりにあるNというカフェは営業していました。その奥にある200年前の蔵を利用したバー蔵部Dの経営者はKさんという女性で、本職は美容師で、新婦の着付けやメークアップもしていました。つまり、昼間美容師夜バー経営という二刀流をしていたのですが、その後昼間カフェNまで営業するようになりました。

カフェに入るといたお客は一人だけでした。Kさんはすぐに私に気が付いてわたしの名を呼んで喜んでくれたのですが、マスクを着けていたので逆にわたしがKさんをうまく認識できませんでした。

一人いたお客は、愛知県から来た教員のようで、この店が気に入ってはるばるとよく来てくれるそうだ。その彼も帰り、Kさんと二人だけになりいろいろと話ができた。コロナ以降蔵部Dは開店休業のような状態になり、それから今まで営業を休んでいるとのことだった。

彼女と話していて面白かったのは、私が奈良にいたころ通っていた店は、Kさんによればいずれもそこの客筋が癖の強い人が集まるところばかりだと指摘されたことだ。一つの店で知り合った人に、あの店もいいと言われた店に次々に行っただけだが、そんな空気を持った店ばかりのようだ。ということは、蔵部Dも彼女が経営するもうひとつのカフェNもそうなるのだろう。

 

次にだれか新しい客が来るまでと思っていたが、なかなか来ないので店を出ることにした。

リュックサックを背負い、料金の支払いをすると、Kさんが後ろから私のリュックを開けて店で売っていた雑貨をつめて、「奥さんのお土産にしてくれ」いう。10年ほど前に妻と一緒に来たのを覚えてくれてたようだ。あとで見ると、奈良晒の布巾などいくつかが入っていた。

 

そこから奈良町を歩いて近鉄奈良駅に戻り、酒のつまみ用に刻み奈良漬けを5種類(うり、きゅうり、なす、しょうが、混合)自分への土産として買い、電車に乗り奈良に別れを告げた。