ある患者は末期がんだった。

手術には耐えられない年齢、抗がん剤の適用も難しいほどがんは広がっていて

手の施しようもない状態だった。

 

「じゃあ、緩和ケアに移行するわけですね」

ある新人看護師はそう聞いた。

もちろん、そうだ。その患者が痛みで苦しむのは誰しもわかっている。

緩和ケアのためのモルヒネなど鎮痛剤が投与されると思っていた。

 

「家族から緩和ケアは望まないと話が来ています」

 

え?

 

担当医、看護師たちは耳を疑った。

「まさか、その患者の状態から言って死期が近くても鎮痛をしないと

 本人が苦しむ。がんで即時に亡くなるような状態じゃない」

誰しもがそう話していた。

 

病院の保健師、ケースワーカーは家族からの連日の抗議に苦しんでいた。

家族の訴えとしては、緩和ケアは望まない、鎮痛剤の類は一切処方するなだった。

 

「一体どうして?」誰もが思った。

当てはまるケースとしては宗教的なものではないか?例えば輸血を拒否しているような

自然主義的な何かの思想によるものじゃないかと。

 

だが実情は違った。

 

その患者には2人の子供がいる。

その子供たちがある日、病院にやってきた。

病院に来るなりケースワーカーや医師、看護師にこう言った。

 

「彼には徹底的に痛みで苦しんで亡くなってほしいんです」

 

・・・その病院の職員は

その子供たちが親に対して恨みを持っていることがすぐにわかった。

何が起こったのかはわからない。

ただ、一つ言えることは、病院には方法がないということだった。

これ以上施しようもないということでもあった。

 

彼は意思を示せるような状況ではなかった。

結局、病院を退院し、どこかの施設に移り

そこで徹底的に苦しんで亡くなった。その様子を見て退職した職員もいたという。

 

・・・・

 

すべて実話である。

 

ALS患者嘱託殺人事件の裁判についての記事を見るたびに

このケースをいつも思い出す。

 

「死にたい」という気持ち。

 

周囲が測っても、周囲が判断しても、周囲を尊重してもいけない

ただただ本人が尊重されるべき場合がある。

そんなことを考える毎日である。